平安の夢の迷い姫
11
雑草は夜露を含んでいて、踏みつける度に裾が少しずつ重くなっていく。これほどまでに草が生い茂っているというのに、虫の音は一切聞こえず、敷地内はしんと静まり返っている。
「……いるね」
『間違いなく、良くない何かがいますな』
ごくりと唾を飲み込み、葵は邸の内部へと上り込む。いつも通りだ。埃っぽい臭いがして、空気は湿っぽくて、月明かりはあるのに少しも明るくない。
「……ねぇ、暮亀?」
気を紛らわせるためだろうか。辺りを見渡しながら、葵が暮亀に視線を寄せた。
『何ですかな?』
「暮亀ってさ、昔の師匠とかも、見た事あるの?」
『たかよし様のお若い頃ですか? ……えぇ、私が惟幸様に式としてお仕えするようになり、早二十年。十五を越えてからのたかよし様でしたら、存じておりますよ』
そう言われて、葵は指折り数えながら唸った。符を持っていない弓手の指が何度か折られ伸ばされ、最終的に全ての指が開かれた。
「二十年前なら、加夜姫様は六歳だよね。その頃には、流石にまだ師匠とは出会ってないよね?」
『いえ、私が聞き及びましたところでは、たかよし様と加夜姫様がお会いになられたのは、まさにその二十年前。ちょうど、惟幸様が京を出るか出ないかの頃でしたかな』
「そんなに?」
驚いた顔をして、葵ははぁ、と息を吐いた。
「長いなぁ。俺が生まれる前からだ」
『それを言ったら、惟幸様とたかよし様など、かれこれ三十年近くなるそうですぞ。葵様の生きた倍の時を、友人として過ごしておいでです』
「三十年……想像もつかないや……」
ほっほっほと、暮亀は笑った。
『そうでしょうとも。葵様はまだまだお若い。三十年の時の長さどころか、十五年後に己が而立になった姿を思い浮かべる事も困難でしょうに』
「……そうかも。全然想像できない」
暮亀は、またほっほっほと笑った。
『それで……たかよし様のお若い頃を私が存じているのであれば、何をお聞きになりたいのですかな?』
「あ、うん。師匠と加夜姫様、昔、何かあったのかなって」
『……と、言いますと?』
首を傾げる暮亀に、葵は唸りながら首をひねった。
「上手く言えないんだけど……日が続く事は無いにしろ、二十年以上も通い続けてるし。気が短くて飽きっぽいって、普段自分でも言っているのにだよ? 呼ばれたら何を置いてもすぐに駆け付けたり、貸しを作る事が嫌いな人なのに俺達を頼ったり……いつもなら俺に仕事をやらせるなら自分は高みの見物なのに、今回は自分でも動いたり……。師匠、加夜姫様の事となると、どこかいつもの師匠じゃないみたいだからさ」
『なるほど。それで、何か弱味でも握られているのかと?』
「いや、弱味じゃなくて……こう、命の恩人だとか、昔死んだ恋人に幼い妹を託されたとか……」
『近頃何か、刺激の強い物語でも読まれましたかな? それはさておき、命の恩人説も死んだ恋人の妹説も、考えようによっては弱味ととれますな。そもそもたかよし様のお人柄なら、恩を受けたら即座に礼物で返し、妹を託されればどのような手を使ってでも上達部の養女にでもねじ込んで……といった具合に動かれそうな気はしますが。己の手を煩わされたり、一つの問題や恩を長々と抱え込むのが嫌いなお人ですからな』
「そうなんだよねぇ……」
葵が不思議そうに首を回すと、暮亀は両腕を組み、「ふむ」と唸った。
『まぁ、この場合……長々と抱え込まざるを得ない弱味のように思いますがな』
「えっ!?」
葵の目が輝いた。普段弱味など一切見付からず、理不尽な目に遭っても反撃できずにいる師匠の弱味があるというのなら、是非知りたい。そんな輝きだ。
「師匠にも弱味があるの? どんな?」
『なに、少し考えれば、自ずとわかる事。……惚れた弱味、というやつでございましょう』
葵の目が、露骨にがっかりとした。惚れた弱味では、己は利用する事ができない。もし利用しようものなら、半殺しにされる事請け合いだ。
「惚れた弱味かぁ……。師匠でも、弱味になるぐらい人を好きになる事があるんだ……」
『普段、葵様が目にされているたかよし様は、たかよし様のほんの一部であるという事です。それとは逆に、加夜姫様から見れば、葵様に接するたかよし様は新鮮に見える事でしょうな』
「……わかったような、わからないような……」
腕を組んで首を傾げる葵に、暮亀はほっほと笑う。
『葵様も、今後増々たかよし様の仕事を援け、多くの方々と関わるうちにわかりましょう。……時に、葵様?』
暮亀がすっと顔を引き締め、葵の顔も険しくなった。息を呑み、微かに頷く。
「うん……さっきから、少しずつだけど瘴気が濃くなってきてる。……近いね……」
息を殺し、葵は更に一歩、奥へと足を踏み入れた。草履で踏み締めた床から、灰色の埃が舞い上がる。その中に、真っ白い糸が紛れている事に、葵は気付かなかった。