平安の夢の迷い姫























「おい……たった一日で、どうやったらこんなになるんだ……」

夜。加夜の邸を訪れた隆善は、唖然とした顔で呟いた。

床一面に広がる、紙、紙、紙、紙。あちらにも紙、こちらにも紙。紙、紙、紙、紙、紙だらけ。

二十枚や三十枚どころではない。足の踏み場も無いほどに紙が散乱し、部屋の中に雪が降り積もったようになってしまっている。

「惟幸様が仰ったの。絵に起こすと、現になるまでに少しだけ間が空くと。だから、これからは何か思い付く事があれば、どんなに些細な事であっても絵に起こして、隆善様にお見せするようにと……」

「それは、聞いてる。俺が知りたいのは、何をどうやったら、一日経つか経たないかのうちに、これだけの枚数を描けるのかっつー事だ」

「朝、目覚められたら妙に嬉しそうなお顔をなさって、紙を取り出されて。それからは食事を摂る事も忘れて、ずっと筆を走らせていらっしゃるような有様です」

困り顔の不破の横には、山と積まれた菓子に、強飯の握り飯。どちらも、手を付けた様子が無い。

「お腹が空かれたら、いつでも召し上がれるように準備しておいたのですが……」

「おい、加夜。夢中になるのは結構だがな、飯はちゃんと食え。……ったく、どいつもこいつも、そんなに早死にしてぇのか」

「まぁ、隆善様ったら、まるで母上様のような事を仰って……あ」

言うなり、目を輝かせて筆を手に取り、反故の余白に何事かを描き始める。

「おい、やめろ……。また惟幸が笑い死にしそうになるような絵を描くんじゃねぇ。……って言うか、俺よりもお前の方がよっぽど惟幸を殺せそうだな……」

「まぁ!」

手を止め、加夜は不満げに頬を膨らませた。その様子に、隆善は苦笑する。

「悪い悪い。……んで、この大量の絵は、一体何を描いたものなんだ?」

待っていましたと言わんばかりに、加夜の目が輝いた。早速傍にあった紙の束を手に取り、文机の上に並べ始める。

「えっと……まずこの絵なんだけど、これは三枚で一組になっているの。一番左に配するこの絵に描いたのは、京を夜な夜な徘徊する百鬼夜行。それで、真ん中に配するのは、先陣を切って調伏に向かう葵殿。それで、一番右。この絵に描いたのは、隆善様と惟幸様! 背中合わせで後詰をなさっている様子を描こうと思ったんだけど……ちゃんと意図したように見えているかしら?」

「……遂に惟幸と葵も巻き込んだか……」

加夜の手の速さに、ろくろく言葉が見付からない様子である。隆善は、大きくため息を吐いた。

「……で? 一番左の絵が百鬼夜行って事は、あれか? あと数日で、京に百鬼夜行が徘徊するようになるって事か?」

「……やっぱり、そうなっちゃうのかしら……?」

加夜の顔が、少しだけ申し訳なさそうに曇った。その様子に、隆善は慌てて加夜の肩を力強く抱く。

「深く考えんな。出るのがわかっているだけでも、今までより随分良い傾向だ。予め手が打てるからな。それに、絵にしなければ、今想定しているのとは比べ物にならないような奴らが京に溢れていたかもしれねぇんだ。絵にしてくれて、助かった」

「……けど、そもそも私がこんな構図を思い付いたりしなければ、百鬼夜行が現になるなんて話にはならなかったのに……」

「惟幸に言われなかったか? 鬼なんてもんは、加夜でなくても、人である限り誰もが生み出しかねねぇんだよ。俺や惟幸、葵だって、いつ何が原因で鬼になるかわかったもんじゃねぇ。人の心ってのは、脆くて危ういんだ。なのにお前は、もう二十年以上もの間、鬼になる事無く、誰かに血を流させる事も無く、騒がしくも平穏に暮らしてきた」

隆善は大きく息を吐き、吸って。加夜の目をまっすぐに見た。

「加夜、お前は強い。だからこそ、お前の生み出す夢の産物は、人を傷付けない。お前が想像しちまった事で、たしかに京に百鬼夜行が溢れるかもしれねぇが……それで誰かが傷付くって事は無い。もし傷付く奴がいるとしたら、その百鬼夜行はお前が生み出したものじゃねぇ。別の誰かが生み出しちまった、別物だ。だから、お前は安心して飯を食って、絵を好きなだけ描いて、疲れたら寝ろ。あとの事は俺達が……いや、俺が何とかしてやる」

「隆善様……」

泣き出しそうになる加夜の背を優しく撫でてから、隆善は不破に顔を向けた。

「文を書きたい。悪いが、筆を貸してくれ。あと、紙を三枚ほど頼む」

「は、はい!」

頷くや、不破は硯筥と白い紙を隆善に差し出した。塗籠から、新しく文机も持ってくる。

文机の上に紙を広げると、隆善は墨を磨り、さらさらと文字を書き出した。豪快で、書き手の性格を汲んだ文字だ。

書き上がり、墨が充分に乾いたところで隆善は三枚の紙を手早く折りたたんでいく。あっという間に、三枚は鳥のような形に折り上がった。

「隆善様、これは……葵殿が隆善様に出した式神と同じ……?」

「そうだ。今から惟幸と葵、それから陰陽寮の上司に宛てて飛ばす。誰かが傷付こうと傷付くまいと、百鬼夜行が出るなら、警戒させねぇとな」

そう言うと、隆善は三羽の紙鳥にふっと息を吹きかけた。途端に鳥達はわさわさと動き始め、ゆっくりと宙に浮かび上がる。

「疾く行け。急急如律令」

囁くように命じると、鳥達は一斉に飛び立った。鳥の形はしているが、闇のような夜空を真っ直ぐに飛んでいく様を見ていると、やはり紙でできた式神なのだ。

三羽の鳥が見えなくなると、隆善はほっと息を吐き、加夜に向き直った。

「これで、百鬼夜行が出ても大丈夫だ。お前は安心して良くなったわけだが……すぐに残りの絵も見るか? ……その……明日も来るつもりでいるから、何なら続きは明日にして、今日は……」

その時、一陣の強い風が、邸の中に吹き込んだ。風は部屋の中で渦を巻き、床に散っていた紙達を巻き上げる。ばさばさという音を立てて、南庇に、簀子縁に、庭に、築地の外に、飛んでいく。

「あ……あぁっ!」

思わず飛び出た叫び声に、不破が顔を顰めた。

「姫様、そのような大きな声を出されて……はしたのうございますよ!」

「そんな事言っている場合じゃないわよ……!」

加夜の顔は青褪め、隆善は舌打ちをしている。その間にも白い紙々は、夜の闇の中、幻想的に舞い飛んでいく。

「ど、どうしましょう隆善様! 早く拾い集めに行かないと……!」

「落ち着きなさいませ、姫様。それほど慌てずとも良いではありませぬか。絵が散ったからとて、絵から化け物が抜け出てくるわけではございませんでしょう? ゆるりと集めれば……」

「……不破……」

隆善が、頭痛を訴えるように米神を抑えた。その横では、加夜が両手で顔を覆っている。

「……加夜。聞くまでもないと思うが……」

「ごめんなさい……。舞い散った絵から、絵が抜け出てくるなんて面白いって……」

考えてしまったらしい。これでは、舞い散った絵は落ち着く場所を得たそばから現となってしまうかもしれない。

「も、申し訳ございません……! 私としたことが、つい……」

事態に気付いた不破の顔も、青褪めた。

「考えちまった事は仕方がねぇ。過ぎ去った時を無かった事にする方法なんざ、考えるだけ無駄だ。それよりも、一刻も早く全ての絵を回収するぞ!」

裾を翻し、隆善は築地の外へと険しい視線を向ける。その視界に、瑠璃色の影が飛び込んできた。

「師匠!」

「葵か。早かったな」

肩で息をしながら、葵は顔を上げた。どうやら、全速力で駆けてきたらしい。

「はい。師匠があんな文を寄越すだなんて、よっぽどの事ですし……。まずは詳しい情報を得るため、こちらに伺いました」

「それで良い。……ところでお前、さっきどこから入ってきた……?」

「え? ……あー、その……野駆の術で走って勢いを付けて、築地の上をこう……ひょーいっと……」

「……」

無言のまま、隆善は葵の頭を叩いた。ぺしん、と良い音がする。

「あ痛っ!」

「普段は絶対にやるなよ、この馬鹿弟子が。傍から見りゃ、盗人同然じゃねぇか」

恐縮して小さくなっている葵を前に、隆善はため息を吐いた。そして、葵に事情を説明してから空を見たが……最早、飛んで行ってしまった紙の行き先は、目で追えないほどになってしまっている。

「とにかく。まずは絵を集める必要があるな。葵、二手に分かれるぞ」

『そういう事なら、僕もたかよし達を手伝わないとね』

「……あん?」

「え?」

「あっ!」

突如、足元から声が聞こえてきて、隆善は胡乱気に、加夜は目を丸くして、葵は顔を明るくして視線を下へと寄せた。

紙を切り抜いただけの人型が、そこでひらひらとそよ風に揺られている。目も鼻も、口も無い。本当に切り抜いただけの真っ白い紙だ。

そして、どう見ても式神の形代である。

「あの……隆善様? これは……ひょっとして?」

加夜が形代を覗き込むように見ると、形代は片手を頭の後にやり、照れくさそうな様子を見せた。同じように覗き込みながら、隆善は頭に手をやり、深いため息を吐いている。

「惟幸……お前とうとう、自分が出張らずに式神を使うようになったのか。この引き籠りが」

『いやいや。今、夜だからさ。急いで行きたくても、危ないじゃない。夜道で何に襲われるかわからないし、僕の留守中に鬼が来たらと思うと気が気じゃないし。それに、夜の京に僕の実体が行ったりしたら、鬼が入れ食い状態になると思うんだけど?』

惟幸の形代は、足こそ地をしっかりと踏み締めているが、体は風に吹かれてひらひらと揺れている。言葉と相まって、真面目な話をする態度ではない。

「……お前、見かけによらず、よく食うだろ。そうやって横着してると、太るぞ」

『大丈夫だよ。普段は薬草を探して野山を歩き回ってるし、三日に一度は鬼と戦ってるしね』

「よく寝てよく食ってよく動く……ってか? 餓鬼か、お前は」

『当方、三十五歳にも拘らず元服してない而立越え童だから』

何気に、昼間言われた事が気に障っていたらしい。

『太ると言うなら、僕よりもたかよしの方が問題なんじゃないの? 而立越えて肥え易くなってるのに、回ってきた鬼退治の依頼はほとんど葵達弟子に任せちゃってるんでしょ? 美味しい物食べるの好きだし、お酒もたくさん飲むし。昔、占いの練習で自分の先を読んだら、〝肥え過ぎによる滅太墓狸都苦辛弩露悪無に注意〟って出たじゃない。……そう言えば、あの〝めたぼりつくしんどろおむ〟って、何の事かわかった? 肥えた人を好んで喰らう鬼とか?』

「いや、未だにわからねぇ……って、今はそんな話をしている場合じゃなくてだな」

青筋を額に浮かべながら、形代の頭をびしりと指で弾いた。形代の惟幸は、痛そうに頭を両手で押さえている。

『破れたらどうするのさ』

「うるせぇ。冷やかしに来ただけなら、微塵も残さず破り捨てられる前に、とっとと山へ帰れ」

「そう言えば……惟幸様、さっき俺達を手伝うって……」

大人気ない大人のやり取りを眺めていた葵が、おずおずと口を開いた。すると形代は、頭をひらひらとさせて頷く。

『そうそう。この広い京を、陰陽寮の援けも借りられるとは言え、ほぼたかよしと葵だけで探し回るのは、流石に骨が折れるでしょ? それに、一人で探し回って、もし百鬼夜行とかち合ったりしたら危ないからね』

そう言って、惟幸の形代は両手をたしたしと叩いた。

『明藤、暮亀、宵鶴』

『はい、ここに』

りりん、という清らかな鈴の音と三色の声が聞こえ、いつの間にかその場に三人分の人影が増えていた。美しい女官、全ての知識を蓄えていそうな老翁。そして伝説の征夷大将軍、坂上田村麻呂を髣髴とさせる精悍な武将。

その三人の前に立つと、惟幸の形代は女官、老翁、武将の順に紙の手で示していく。

『右から順番に、明藤、暮亀、宵鶴。三人とも、僕の作り出した式神だよ。全員、そんじょそこらの衛士や検非違使なんかよりよっぽど強いから、心強い援けになるんじゃないかな?』

「そうだな。形代で来て舐めた口きく引き籠りよりは、ずっと使えそうだ」

『また、そういう事を言う』

紙のはずなのに、惟幸の形代はため息を吐いている。顔の部分が、ひらりとひと揺れした。

『とにかく、このままたかよしも葵も出て行っちゃうと、加夜姫様が危ないからね。明藤、君はたかよし達が出掛けている間、加夜姫様や、お邸の人達を守って』

『かしこまりました。惟幸様の、仰せのままに』

優雅に一礼し、明藤は加夜と不破の間へすす、と移動した。不破が、少しだけ不安そうな顔をする。

「あの……疑うようで申し訳ないのですが、その……女性の式神で、本当に大丈夫なのでございますか?」

『あれ? 男性型の式神の方が良かったですか? 明藤、一応女性の護衛用でもあるんですけど……』

不思議がるような声を発する形代を前に、不破は黙り込んだ。そして、すぐに頭を下げる。

「……お心遣い、感謝いたします」

『いえいえ。……じゃあ、あとは……暮亀は葵について行って、もしもの時は知恵や知識を貸してあげてよ。宵鶴は僕と一緒に、たかよしについて』

『仰せのままにいたします、惟幸様』

『かしこまりました。仰せのままに』

「……おい。楽になるのはありがたいんだが、俺のところの戦力がやけに強力じゃねぇか? どう見ても偏ってるぞ」

やや呆れた様子で隆善が言うと、惟幸の形代は『えー、そう?』と言って小首を傾げた。形代だからか、動きが少しだけ可愛らしい。本当に、少しだけ。

『僕は今回形代だから、式神は使えてもろくな調伏はできないし。風にのって、上から京の中を探すだけだよ? それに、葵は調伏の術だけなら、たかよしと同等かそれ以上に強くなってるんじゃない? 若さと体力は確実に葵より劣るんだからさー、純粋な武力だけで言えば、宵鶴をたかよしにつけた方が良いと思うんだよね』

「お前……本当にそのうち呪い殺してやるからな……」

『だから、友達を呪詛返しで殺したくないから、そういう事言うのやめてほしいって。何度言ったら……』

「あ、あー……師匠? 惟幸様? そろそろ、出発しません?」

居た堪れなくなったのか、純粋に今後現れるかもしれない物の事が気になるのか。隆善と惟幸の言い合いに、葵が割って入った。

「……姫様。葵殿にまた、菓子でも用意しておきますか?」

「そうね……そうしてちょうだい」

陰でひそひそと相談すれば、聞こえてしまったのか、明藤がくすりと笑う。笑い方まで優雅で美しい式神だ。

華やかさが更に増した女達を横目に見つつ、隆善が一つ、咳払いをする。

「それじゃあ、行くぞ。目的は加夜の絵の回収。それと、現になっちまった奴がいれば、それの調伏だ。わかったな?」

惟幸の形代と式神達、葵が言葉無く頷いた。そして、月の下、門をくぐって夜の京へと踏み込んでいく。

「隆善様、皆様……どうか、ご無事で……」

拝むように手を合わせ、加夜は隆善達の後姿を見送った。飛ばされずに部屋に残った数枚の絵が、緩い風に吹かれてかさりと揺れた。











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