平安の夢の迷い姫






















「あらあらあら……隆善様が仰った通りだわ。これは、大変」

眠りについて四半刻もせぬうちに、加夜は眦を下げて呟いた。

ここが夢の中だという事は明白だ。辺りはふわふわとしていて綿の原にいるようで、現実味が無い。夜だから寝たはずなのに、昼間のように明るい。何より、そこには着物も調度品も、自分が寝ていたはずの邸すら無い。

頭の中で考えた事……それこそ夢に見た物まで現の物としてしまう力を持つ加夜だが、これまでに場所そのものを夢のような世界にしてしまった事は一度も無い。

だから、夢のような場所にいるのだとしたら、それは確実に夢なのだ。現ではない。

そして、これは夢だと認識した加夜の目の前には、巨大な鬼。背丈は九尺か、ひょっとしたら一丈もあるかもしれない。筋骨隆々としており、全身が血に染まったかのようにどす黒い。頭には鋭い二本の角が生えている。加夜に背を向けているために確認できないが、恐らく歯や爪も鋭く尖っているのだろう。

「こんなのが現になってしまったら、大騒ぎじゃ済まないわ。隆善様が気付いてくださって、本当に良かった」

ほっと息を吐く加夜の耳には、先ほどから、ぱしりぱしりと雨が板を打つような音が聞こえている。恐らく、部屋のあちらこちらに貼った隆善の符が、鬼が現の物となってしまうのを防いでいる音なのだろう。

音を聞いているうちに、加夜は不安になってきた。

「隆善様は、符の効果は短いと仰っていたわ。もし、符の効果が切れてしまったらどうなるのかしら……?」

加夜の不安を煽るように、ぱしりぱしりという音は次第に数が少なく、弱くなっていく。それに、心配なのはそれだけではない。

「こちらだけは、向かないでくれると良いのだけど……」

夢だとわかっていても、眼前の鬼は恐ろしい。もし鬼が加夜に気付いて、襲い掛かってきたら?

「そんな事になったら……私はより一層、この鬼の事を強くて怖い物として意識してしまうもの。そのままこの鬼が現になってしまったら……」

それ以上は考える事もできず、加夜はぶるりと身を震わせた。その気配を感じたからというわけでもないのだろうが、鬼がゆっくりと首を巡らせた。

「……!」

思わす息を呑む。口を手で押さえ、隠れる事ができる場所は無いかと視線を走らせる。だが、何も無い。何も見当たらない、夢の世界だ。

鬼が、加夜を視界に収めた。どす黒い顔に、真っ赤な口ががばりと開く。笑っているようだ。白く鋭い歯が見える。

鬼が、右腕を振りかぶった。逞しい腕の筋肉が、盛り上がる。このまま、加夜を殴るつもりだろうか。それとも捕らえ、喰らう気だろうか。

ぱしりぱしりという音が聞こえなくなった。符の効果が切れた。このままでは、このどす黒く恐ろしい鬼は夢の世界で加夜に危害を加えるだけではなく、現の物となって、家人達や現の加夜、それだけではなく邸の外の人々にまで害を成すかもしれない。

恐ろしく、目を閉じてしまいたい。だが、恐ろしさのあまり目を閉じる事もできない。

「……隆善様……!」

胸元でぎゅっと手を握り、加夜はすがるようにその名を呼ぶ。……そうだ、符を渡す時、隆善は何と言っていた? 符は時を稼ぐものだと言ってはいなかったか?

鬼が、右腕を振り下ろす。凄まじい風圧が、加夜を襲う。あと一瞬だ。一瞬で、加夜はあのどす黒い腕の餌食となってしまう。

その一瞬の間に、事態は急変した。

「臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!」

鋭い声が聞こえたかと思うと、加夜の背後から強烈な風が吹きつけ、鬼の腕を押し返した。鬼はよろけ、尻餅をついてしまう。

「今のは……?」

目を丸く見開いて、加夜は後を振り返った。

男が一人、立っていた。隆善と同じか、少し若いかという年頃。浅縹の水干を身に纏った体は、日に焼けてはいるがほっそりとしている。どう見ても大人なのに、大人の証である烏帽子も冠も、何も被っていない。そして、こんな場だというのに顔には柔らかな笑みを浮かべていた。

「加夜姫様ですね? お怪我は?」

夢の世界だというのに怪我の有無を問う男の言葉に、加夜ははっと我に返った。

「ありがとうございます、怪我はありません。あの……あなた様は?」

「あぁ、ちょっと待って頂けますか?」

片手で加夜の問いを制すると、男はにこやかな顔のまま、鬼に向き直った。尻餅をついていた鬼は体勢を持ち直し、立ち上がっている。

男はそれを気にする様子も無く、素早く胸元で印を組みながら声を発した。

「臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!」

先ほどと一文字だけ違う言葉を紡ぐ。途端に、先よりも更に強烈な風が吹き荒れ、鎌鼬となって鬼に襲い掛かった。

「ぐぎゃあぁあぁぁぁぁっ!」

鬼が、初めての声となる断末魔を発する。神経を侵しそうなその声に、加夜は思わず耳を塞いだ。男は相変わらず、穏やかな顔をしている。

やがて断末魔の余韻も消え、鬼は完全に加夜の夢から消滅した。空気が和らいだところで、男が加夜へと振り向く。

「名乗らずにいた非礼をお許しください。瓢谷たかよしの依頼で、今夜一晩、あなたの護衛に伺いました。惟幸、と申します」

「たかよし様……ですか?」

聞き慣れぬ名に、加夜が首を傾げる。惟幸は、「あぁ」と手を打った。

「そうでした。普段は有職読みで名乗っているんでしたね。彼の本当の名は、たかよしと言うんですよ。陰陽師となれば、名前を利用し、呪詛される危険も多いですからね。本当の名を名乗らず、読みだけ変えてりゅうぜん、と名乗っていると聞いています」

「そんな事を知っているなんて……惟幸様は、隆善様とどういったご関係なのですか?」

すると、そこで惟幸は初めて、顔から笑みを消した。少しだけ、顔を顰めている。

「たかよし……本当に何も話してないんだ。いっつも説明は僕に押し付けるんだから……」

独り言で腐ってから、惟幸は再び穏やかな笑みを顔に浮かべた。

「私とたかよしは……」

「あ、ちょっと待って」

跳ねるような声で、加夜は惟幸の言葉を遮った。惟幸が口をつぐんだところで、加夜はにっこりと笑う。

「さっきの独り言、しっかり聞こえたわ。惟幸様はきっと、隆善様のお友達なのね? 隆善様のお友達なのなら、そんなに畏まらないで頂きたいわ」

少しだけ面食らった顔をしてから、惟幸はくすりと笑った。

「じゃあ……」

ごほんと、咳払いをする。

「僕とたかよしは、いわゆる幼馴染というやつで。子どもの頃から、互いに迷惑をかけ合ったり助け合ったりしてる仲……とでも言えば良いのかな?」

「まぁ、幼馴染!」

にこりと笑って、惟幸は頷いた。その様子に、加夜のいつもの癖が頭をもたげる。

(惟幸様は、ずっと笑っていらして、穏やかなお方だわ。化け狐や狸、果ては火車とだって仲良くできそう)

途端に、着物を着込んで二足歩行をする狐狸、炎を纏った車を牽く化け猫の火車が姿を現し、惟幸にじゃれ付き出した。その様子に、惟幸は目を丸くする。

「これは……」

「いけない! 私ってば、またやっちゃったわ!」

今頃、現の邸では化け狐と狸、火車が現れている事だろう。家人達が寝付いて目撃していない事を祈るばかりだ。

「なるほど……たかよしから聞いていた通りだ。面白いけど、ちょっと厄介な力だね」

言いながら、惟幸は化け狐達を優しく撫でた。口元で小さく、何事かを唱えると、化け狐や火車達は跡形も無く消える。

「たしかに、こんな力を持っている加夜姫様を放っておくのは、流石のたかよしでも心配になるよねぇ。たかよしが僕に頼みごとなんて珍しいと思ったんだ」

「? 珍しい、というと?」

加夜が首をかしげると、惟幸は苦笑した。

「彼、基本的に他人に借りを作りたくない人種なんだよね。特に、僕には。それが式神を使ってまで急な文を寄越して、加夜姫様を守ってくれ、なんて言うから……内心、驚いてたんだ」

大切にされているね、と言われ、加夜は頬が熱くなるのを感じた。

「隆善様が、そのような事を……?」

「うん。……加夜姫様の事は、名前だけは聞いていたんだけど……名前以外の情報を聞いたのは、今日が初めてなんだよね。詳しい事を教えて、僕が加夜姫様に興味を持つ事が嫌だったのかな? 僕は妻一筋だって事、知ってるはずなのにさ」

少しだけ頬を膨らませ、それから苦笑して見せる。仕草が、どこか幼い。

「それだけ加夜姫様の事が大切で……誰かに取られたり、失ったりしたくないんだろうね」

「……惟幸様には、お方様がいらっしゃるのね」

顔が紅潮したのを誤魔化すように、加夜は話をすり替える。……と同時に、思考を巡らせた。

(惟幸様のお方様……どのような方かしら? 穏やかな惟幸様のお方様なのだから、きっと穏やかでお優しい、のんびりとした気性のお方だわ)

惟幸の横に、華やかな単を身に纏い、おっとりとした顔に穏やかな微笑みを浮かべた、天女のような女性が現れた。淑やかに惟幸へと歩み寄り、そっと腕を取る。

「あぁ、違う違う」

惟幸は苦笑しながら手をひらつかせ、そして女性の肩を撫でた。女性の姿は、瞬く間に消えてしまう。

「僕達、身分違いの恋で駆け落ちした身でね。妻は貴族の出じゃないんだ。……あんな着物、一度は着せてみたいと思うんだけどね。それに僕の妻は綺麗と言うよりは可愛い人だし、はきはきとよく動く働き者だし。奥ゆかしいところはあるけど、言いたい事ははっきり言ってくれるし……」

「あの、その辺りで……」

長くなりそうな惚気話を遮り、加夜は話を少しだけ戻そうと試みた。

「駆け落ちという事は……その……惟幸様は、お仕事は何を?」

駆け落ちの身となれば、大内裏で働く事は難しいだろう。いつ何時、親兄弟や親戚と顔を合わせるかわからない。

「今は京の外に居を構えて、野山で薬草を採って薬を作ったり……あとは、鬼退治や魔除けを頼まれたらそれを請け負ったり、かな? 飛び出した実家が陰陽の術を司る家だったものだから、昔取った杵柄って奴でね。ちなみに、元服前に家を飛び出してしまったので、まだ元服してません」

最後は、目を逸らしながら何故か改まった丁寧な口調で言った。烏帽子も冠も被っていない事を気にしてはいるようだ。

「元服をせずとも、婚姻を結ぶ事はできるのね……」

感心した様子の加夜に、惟幸は「あー……」と気の抜けた声を発しながら、再び目を逸らした。

「野合みたいなものなんで、あんまり褒められた事じゃないんだけどね。こうでもしないと、一緒になる事ができなかったから、仕方なく……」

「けど、好き合った相手をちゃんとお方様にできたのだもの。……羨ましいわ……」

「……加夜姫様?」

訝しむ惟幸に、加夜は寂しそうに笑った。

「お忙しいのはわかっているのだけど……隆善様、今まで二夜以上続けて通ってくださった事が無いの。だから……不安で……」

「え」

惟幸はぽかんと口を開け、それから顔を少しだけ顰めた。男が三夜続けて通う事で、婚姻は成立する。二夜以上続けて通う事が無いとなると、女からすれば「この男は己と結婚する気はあるのだろうか」と考えさせる不安材料にしかならない。

「隆善様が、私の事を案じて通ってきてくださっている事はわかっているの。けど、私の元に通ってくださる男性は隆善様だけだから……。もし、隆善様が私の力に嫌気がさして、邸を訪れてくれなくなってしまったらどうしよう、とか……」

「たかよし……あの馬鹿……」

小さいながらも呆れきった声で、惟幸は毒づいた。額に手をやり、ため息を吐く。

「それに関しては、僕の方からもそのうち焚き付けておくよ。加夜姫様は加夜姫様で、もっとたかよしに通ってくるよう、働きかけてみてくれるかな? 最近、陰陽師として名を上げてきて、依頼がたくさん入ってはいるみたいだけど……弟子も一人前になってきていて、夜に時を設ける事はできるはずなんだからさ」

「けど、今日はそのお弟子様に何かあったので、手助けに行くと……」

「……そうだったね……」

もう一度ため息を吐いてから、惟幸は少しだけ疲れたような笑みを浮かべて見せた。

「たかよしはあれで、純粋な好意に弱いし、頼られたら全力で応えようとするたちだから。加夜姫様がもっと、たかよしへの好意や、二日以上通ってくれない事への不安を強く伝えれば、きっと事態は好転すると思うよ」

そう言ってから、惟幸は「そうだ」と面白そうな顔をした。

「彼の事、隆善じゃなくて、たかよしって呼んでみなよ。僕にたかよしって呼ばれると嫌そうな顔をするけど、加夜姫様ならきっと、喜ぶんじゃないかな?」

その提案には、曖昧に頷く事しかできなかった。

「……あの……」

「ん?」

首を傾げた惟幸に、加夜も首を傾げた。思い切って、頭に沸いた疑問を口にする。

「惟幸様は、何故そこまで仰ってくださるのですか? 隆善様から話を聞いていたとはいえ、私と惟幸様は初対面なのに……」

「話を聞いただけでも、たかよしが加夜姫様を大切に思っている事はよくわかったからね」

くすくすと、笑っている。その仕草は、やはりどこか幼い。

「さっきも言ったけど、僕とたかよしは迷惑をかけ合ったり、助け合ったりするような仲だから……今までに助けてもらった事も、何度もあるんだ。だから、その分僕は、たかよしを助けなきゃな、と思ってる。たかよしが大切に思っている加夜姫様を助ける事、加夜姫様が幸せになる事は、結果として、たかよしを助ける事になると思うからね」

加夜の顔が、再び紅潮した。惟幸はその様子をにこにこと眺めていたが、その顔は突如、すっと冷える。

「それに……加夜姫様の力は、加夜姫様の心に大きく影響されるみたいだし……。加夜姫様の心が不安なままだと、そのうち鬼が溢れだして、京に影響を与えかねないからね……」

「……え?」

ぼそぼそとした小さな声に、加夜は訝しげな顔をした。だが、惟幸の顔は既に穏やかな笑顔に戻っている。

「いや、何でもないよ?」

にっこりとした顔できっぱりと言われてしまっては、それ以上聞く事はできない。不思議そうな顔をしたままの加夜に、惟幸は「あぁ、そうだ」と言った。

「今夜の、この夢の事。当然そのうち、たかよしに話すんだよね?」

「えぇ」

加夜が頷くと、惟幸は「じゃあさ」と言って笑った。

「たかよしの事だから、多分僕の発言の何かが気に食わなくて、こう言うと思うんだ。「調子にのってんじゃねぇぞ。そのうち呪い殺してやろうか」って。その時は、こう返しておいてもらえるかな?」

そう言って、加夜の耳元にひそひそと何事かを囁く。ふんふんと頷きながら聞いていた加夜も、くすりと笑った。

「わかったわ。そのように」

「頼んだよ?」

そう言って、惟幸は加夜から一歩だけ、離れた。それと同時に、惟幸の姿が薄れ始め、辺りが次第に暗くなる。

朝が訪れ、目覚めの時が近い。加夜がそれを感じた瞬間、世界は濃い暗闇に満たされた。











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