平安の夢の迷い姫
1
これは現の物語
されどもこれは夢物語
我には現の物語
余人にとっては夢物語
枕頭にまみえし夢物語
草子に記して現に示さん
これは現の夢物語
夢を記した現の草子
これを目にした現の人は
夢物語に出会うだろう
◆
いずれの御時かはわからねど、平安の代。星々が美しく瞬く、夏の夜である。
京は左京、西洞院大路沿いに、そこそこ大きな邸があった。とある中流貴族の美しい姫が暮らしていると、近所の者達には噂されている。
しかし、美しい姫が住んでいると言われているにも関わらず、この邸を覗こうとする者、この邸に住まう姫に文を送ろうと考える貴公子は、一人たりともいない。
何故なら、この邸には、美しい姫が住んでいるという物以外に、もう一つ噂があるのだ。そしてその噂には、邸はおろか、姫にすら近寄るのを避けたいと思わせる物があった。その噂とは……。
「美しゅうございますねぇ、姫様」
女房の不破が、うっとりとした顔で呟いた。視線の先には、夏の庭。夜の闇を湛えた池の水面を、蛍がちらちらと飛んでいる。
「本当……まるで、夢の世界を垣間見ているようだわ」
暑さ故か、御簾を完全に上げ切った帳台。その中に坐す一人の姫君が、不破と同じようにうっとりとした声を発した。月の光を受けて照り出されたその顔は、色が白く、儚げで、美しい。
姫様と呼ばれてはいるが、世間一般の常識に照らすと、やや歳を重ねているように見える。三十路には達していないだろうが、二十路はとうに迎えているであろう。
歯が白い。どうやらこの姫君、二十路を超えているにも関わらず、未だ婚姻関係を結んだ殿方がいない様子である。他に姫君がいる様子も無し。噂になっている美しい姫君とは、彼女の事なのであろう。
眺めているうちに、ふらふらと一匹の蛍が南庇の中へと迷い込んできた。蛍の光を楽しむために、灯りは全て消している。月の光以外に照らす物の無い薄暗い空間に、ただ一点の青白い光。それは当然の如く、人目を引いた。
「まぁ、何と大胆な蛍なのでしょう。己の棲む世界から遠く離れた、こんな暗い場所までただ一匹で来るなんて……」
「遠く、でございますか?」
池と、己の場所を目で測りながら、不破が不思議そうに首をかしげた。すると姫は、そうよ、と頷く。
「考えてもごらんなさいな、不破。この蛍は、私達よりもずっと、ずーっと小さいのよ? 私達が一歩で辿り着ける場所へ行くために、幾度も幾度も、翅を震わせなければいけないのだから……。きっとこの蛍は今、千里の道を踏破した旅人のような心持でいるに違いないわ」
「そういうものでございましょうか?」
「そういうものよ」
そう言って、姫は馬手を、す、と持ち上げた。白い手のひらの上に、引き寄せられるように蛍がとまる。蛍の光は弱々しく、近付いてきたところで全く明るさを感じない。静かな光だ。
「本当に、綺麗。けど……一匹だけだと、何か寂しそうね。仲間が増えれば良いのだけれど……」
「……仲間、でございますか?」
不破が、何故かぎくりと体を強張らせた。一方の姫は、どこか楽しそうに手の上の蛍を見詰めている。
「そう……仲間よ。それも、二匹や三匹じゃなくて……それこそ、この部屋を埋め尽くすほどの蛍がいたらどうかしら? そうすればこの蛍も寂しくないし、私達も天の川の畔で機を織る織女星になったようで楽しいのではないかしら?」
「姫様! そのような事をお考えになられては……!」
「あっ」
不破が悲鳴のような声で言えば、姫もまたぎくりと体を強張らせた。……が、しかし。時既に遅し。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわざわ、ざわざわ。
突如、部屋のあちらこちらで紙をこすり合せるような音が響き始めた。ついで、そこかしこで青白く小さな光が明滅し始める。
夏の夜空を思わせる、幻想的な光景だ。ただし、がさごそという音や、肌の上を這いまわる感触が無ければ。
「ほぅおぎゃあぁぁぁいえぇあぁぁぁぁっ!」
人間のものとは思えない叫び声が、邸の中に響き渡る。あまりの大声に、雑舎の端女達は器を取り落とし、小舎人童は厠へ向かう足を止め、牛飼い童は思わず牛に抱きついた。
「まぁ、不破ってば。そんな大きな声を出したりしたら、はしたないわ」
「これが叫ばずにいられますか! 姫様、他に仰るべき事があるのではございませんか!?」
月の光と、蛍の光。弱々しい光に照らされただけでもわかるほどに青褪めた顔で不破が詰め寄ると、姫は首を巡らせた。そして、困ったように、口元に手を当てる。
「困ったわ……私、またやってしまったのね」
顔も言葉も困ってはいるが、声だけだとあまり困っているようには聞こえない。のんびりとしたその様子に、不破はがくりと項垂れた。
「姫様……何度も申し上げた事ではございますが。思い描いた光景を現のものとしてしまう、姫様のそのお力。それは仕方のない事でございます。仕方のない事でございますが……姫君たるもの、このように多くの虫が湧いているような光景に慣れきっているような様子を見せてはなりません! 虫や怪異に慣れている姫君など、世の殿方が目にされたらどう思われます事やら……!」
「それはもう、もの凄く今更の事だと思うわよ、不破。それに、別に世の殿方にどう思われようとも良いじゃないの。ただ一人だけでも、私の事をわかってくださる方がいれば、それで……」
蛍が、また肌の上を這い回ったのだろう。不破が「ひっ」と短く悲鳴をあげた。
「そうです……そうでございますよ! 瓢谷様……瓢谷様は、まだいらっしゃらないのでございますか!? 今夜はいらっしゃるお約束だと……!」
藁にもすがりたいという様子で、不破は落ち着きなく外を見ながら部屋の中をうろうろと歩き回り始める。しかし、数歩おきに床にとまった蛍を踏んでしまうのか、数度「ひぃっ」と悲鳴をあげたかと思うと、すとんと座り込んだ。その間にも、蛍達は部屋のあちらこちらでざわりざわりと蠢いている。儚げで美しい蛍も、その数が度を過ぎれば恐怖にしかならない。
「……おう。これはまた、随分と凄まじい事になってるな」
「!」
暗闇の中から男の声が聞こえ、簀子縁を歩く足音が響いた。その声と足音に、姫と不破は揃って立ち上がった。姫は喜びの、不破は安堵の気配に包まれている。
すい、と、蔀戸の向こうから男が現れた。手燭の灯りに照らされたその姿は長身で、引き締まっている。力強い目を持っていて、それでいてどこか、静けさを纏っていた。
「まぁ、隆善様」
「瓢谷様! お待ちしておりました!」
姫よりも先に抱きついてきそうな不破の勢いに、男――瓢谷隆善は苦笑しながら手燭をかざした。小さいが力強い炎の光に、部屋の中が明るくなる。そして、青白い光を消し、ただの黒い虫となった蛍達の姿が照らし出された。
圧巻である。
部屋を埋め尽くす勢いの、黒い虫、虫、虫、虫。
それらが全て動き回り、がさりごそり、ざわりざわりと、そこかしこで音を立てている。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわざわ、ざわざわ。
「ひっ……!」
はっきりと目に見えるようになった分、おぞましさが増してしまった。元々青褪めていた不破の顔色が、前にも増して悪くなる。ほぼ土気色だ。
「まぁ……数が多いとは思っていたけど、こんなにたくさん呼んでしまったのね。私ってば……」
「お前なぁ……」
呆れた様子で大袈裟にため息をついて見せてはいるが、隆善の顔はどこか楽しそうだ。
隆善は胸の前で印を組み、口元で何かをぼそぼそと呟く。どうやら真言か何か……とにかく呪文のようだが、それが虫除けの物なのか、別の効果を持つ物なのかはわからない。最後に、「疾っ!」とやや強い口調で気を放つ。
途端に、部屋中の蛍が一斉に、今まで以上にざわめきだした。そして、水が高いところから低いところへと流れていくような自然な動きで、ざわざわと外へと移動し始める。
大量の蛍が外の世界へと飛び出して行く、黒い川のような流れが部屋の中に生まれた。飛び出した蛍は千々に散っていき、やがて暗い夜の庭で思い思いに再び光を明滅し始める。部屋を埋め尽くすほどの蛍がそこかしこで光り、庭はまるで、天の川のような光景となった。
「まぁ、何と……美しい……」
先ほどまで悲鳴をあげていた不破が、うっとりと庭を眺めている。そんな不破をよそに、隆善はするりと部屋の中へと入り込み、姫の顔を覗き込む。姫は恥ずかしげに扇で顔を隠すが、意にも介さぬ様子で隆善はそれを押し下げた。そして、耳に息がかかるほど近くに、顔を寄せる。
「今回はまた……随分と派手な物を出したなぁ、加夜?」
どこか意地の悪い……しかし優しいその声に、姫――加夜は再び、扇で顔を隠した。しかし、隠したその顔に恥ずかしさは感じられない。それどころか楽しそうに、くっくっと笑いをかみ殺している。
最後にはぺろりと舌まで出したその顔を垣間見て、隆善は思わず苦笑した。