花枯らしの姫
都の中でも、右京と呼ばれる地域。その西京極大路沿いのとある邸に、一人の美しい姫が住んでいるという。
姫の名は、石子(いわこ)という。その美しさは、花の如く。見る者は皆、心を奪われ、思わず手折り、己の物としたくなるほどだと言う。
だがしかし、この石子姫の元に通う貴公子は、一人とていない。何故ならこの姫には、ある穏やかではない噂があるからだ。
石子の元に通った貴公子は、一夜明けると髪と目は白く、肌は皺と染みだらけとなり、歯も抜け落ちた老人のような姿になってしまうという。
また、石子の住まう邸の庭には花が無い。……否、無いわけではない。全て枯れてしまっているのだ。冬だけではなく、一年を通して、常に。
それらの噂から、いつしか石子はその美しさではなく、彼女が秘める特殊な体質によって人々の口の端に上るようになってしまった。
石子姫は、触れた物の若さ、美しさを吸い取る。
吸い取ったそれらによって、美しさを保っている。
魔性の姫だ。花枯らしの姫だ。
噂は拡がり、留まるところを知らず。やがて、噂を恐れて石子の元へ通う貴公子は一人もいなくなってしまった。
静かな夜、独り寝をする度に石子は煩悶してしまう。何故己は、このような体質なのか、と。
……そう。噂は事実だった。
石子が触れれば人は老い、石子が摘もうとした花は皆、枯れてゆく。そして、目の前の人が老いれば老いるほど。手の中の花が枯れれば枯れるほど、石子の美しさには磨きがかかっていく。
近頃は老いを恐れ、邸で働いていた者達も次々と辞めているという。食事は御簾越しに置いていかれる。誰も、石子に近付きたがらない。だから、誰が邸にいて、誰が辞めてしまったのか。石子には確認するすべも無い。
こんな事になるのであれば、あんな事を願うのではなかった。……と、石子は毎夜、月が次第に位置を変えていくのを眺めながら、衾の中で身悶えた。
◆
石子は元々、あまり器量の良い姫ではなかった。
生まれた時、その顔かたちを見た父親が
「帝に見初められる木花開耶姫(このはなのさくやひめ)のようにはなれそうもない。ならば永久(とこしえ)の繁栄を約束する、石長姫(いわながひめ)のようになってくれぬものか」
などと呟き、石子と名付けたほどだ。
父のこの言葉は石子にとって呪いとなり、長ずるにつれて重くのしかかってくる。
年頃になった頃には、石子はすっかり、己の容姿を嫌悪するようになっていた。そして、美しい女性を妬み、恨むようになっていた。
妬み、恨みは石子を蝕み、正常な思考を奪い取っていく。
やがて石子は妬みと恨みで我を失くしたかのように、神仏に祈ったのだ。
美しさををください。美しいものから、その美しさを譲り受ける力をください。私だけが美しくあれる力をください。
その真剣な祈りが神仏に届いたものか。その翌日から、石子は触れた物の美しさを己の物とできる体質となった。
花を摘む度、美しい貴公子と肌を重ねる度、石子は美しくなっていく。そしてそれとは逆に、周りのものは皆、枯れていった。花も、人も。石子が触れた、何もかもが。
そして気付いた時には、石子を取り囲む世界は枯れた色のみで織り上げられるようになっていた。石子を恐れて、周りに人がいなくなっていた。
暗い色に囲まれ、人の気配を感じられない御簾の奥に日がな一日閉じこもるようになって、初めて石子は、己の祈りを後悔した。
時に、気を紛らわせようと庭に出て花を眺めたものの、その可憐さに目を奪われて思わず手を出せば花は枯れてしまう。その様子に、石子はますます気を重くした。
しかし、どれほど悔やんだところで、神仏が石子の祈りを取り消してくれる事は無く。それから幾年も過ぎ去ってしまった。
今日も、誰も近くに寄ってきてはくれなかったと。石子は小さく、ため息を吐いた。
◆
石子が相も変わらず憂鬱な気持ちを抱えたまま絵巻物を眺めていた、ある日。
御簾越しに……いや、もっと遠く。簀子縁の向こうからこちらの様子を窺っている気配を感じ、石子は首を傾げた。
「そこにいるのは、誰」
努めて、威厳のありそうな声を出す。誰かもわからぬ者にこちらから声をかけるなど、石子の身分であればあってはならない事なのだろうが、いかんせん、周囲に誰もいないのだから仕方が無い。
「誰なの」
返事が無いので、もう一度問うた。すると、外から「あの……」とか細い声が聞こえてくる。非常に若い、高い声だ。
「恐れながら、申し上げます。姫様に、差し上げたい物があり、機を窺っておりました……!」
その言葉に、石子は「差し上げたい物?」と首を傾げ、聞こえてきた言葉を反芻した。それから、はっと我に返って咳払いをすると、立ち上がった。
御簾に近寄り、己の手で掻き上げる。それを見咎めるような者は、誰一人としていない。
皆、石子に近寄って若さ、美しさを奪われてしまう事を恐れているのだ。……今、石子の目の前にいる一人を除いては。
「私は、誰かと問うたはずですよ。まずは名を名乗りなさい」
そう言われて、目の前の童は縮こまった。
……そう、童だった。童水干に、垂髪姿。歳は、十を過ぎたばかりといったところか。
ところどころ汚れているから、どこかの貴族が子を伴って来たとか、いつの間にか歳の離れた弟が生まれていた、という事ではあるまい。最近雇われた下働き……といったところか。
「……あの……花助(かすけ)、と申します……」
相変わらずか細い声で、童はそう名乗った。石子は「花助……」と呟くと、ふぅん、と小さく唸る。
「それで、花助? 私に何をくれると言うのですか? 見たところ、特に何も持っていないようですが?」
その問いに、花助はしばらくもじもじしていたかと思うと、胸元から何かを取り出した。そっと差し出されたそれに手を伸ばしかけ、石子は、つ、と止める。そして、すぐ近くの階を指差して見せる。
「そこに置いてください。私に触れてはならないという話は、ここで働く者であれば聞き及んでいるでしょう?」
そう言われて、花助はしばし迷う様子を見せた。しかし、石子が再度階を指差したので、慌てて最上段にそれを置く。
花助を少しだけ下がらせ、石子は階に置かれたそれを手に取った。
折り畳まれた紙だ。墨が染み込んでいる事から考えて、恐らく反古だろう。それも、恐ろしく質が悪い。邸で働く者のうち、読み書きのできる者が何かの用事で書き付けた物なのかもしれない。
「これがどうしたと言うのです?」
「あの……恐れながら、開いてみてはいただけないでしょうか……?」
恐れながらもはっきりと要求する花助に、石子はまたも首を傾げながら、折り畳まれた反古を開いた。
そして、目を丸くした。
「これは……桜?」
反古には、桜の花弁が幾枚か挟まれていた。薄紅が、反古に染み込んだ墨色の中に散っている。それを見て、石子は三度首を傾げた。今はまだ、桜が咲くには早い。なのに何故、今ここに桜の花弁があるのか。
「はい……あの、僭越ながら、姫様に差し上げようと思い、昨年の春に集めた物なのです……。桜の木を枯らしたくないと、姫様は旦那様が催された春の宴にいらっしゃいませんでしたから……」
しかし、集めたところで、下働きの童風情が石子に気安く物を贈れるわけもなく。いくら人が寄り付かないと言っても、石子の住まう場所に近付く事は、花助にとって容易ではない。
機を窺っているうちに一年近くが経ってしまった、と、花助は言った。
「そんな事はどうでもよろしい。それよりも、何故この桜は、今ここにあるのですか? 一年も前の物であれば、元の姿を留めていないのが道理でしょう?」
問われて、花助は「あの……」と言い淀んだ。石子が眉をひそめると、花助は慌てて言葉の続きを口にする。
「郷里にいた頃、花に詳しい者に聞いたのです。紙で挟み、重しを載せておくと、花は枯れる事無くその姿を留める事があると……」
だから、中々渡す機会が無いと悟った時、花助はそれを試したのだ。反古に挟んで、上から重い物を載せておいた。いつ渡せる機会が訪れても、その姿を花が保っているように。
それが、上手くいったのだろう。今、石子の目の前には、一年前の姿を留めている桜の花弁がある。
「……私のために、一年もの時をかけてこれを作ってくれたと言うの……?」
ぽつりと、精一杯の威厳を込める事も忘れて、石子は呟いた。
童のやる事だ。深い意味は無い、気まぐれとも言える行為だろう。
だが、だからこそ。深い意味が無いからこそ、石子のために一年もかけて花の姿を留めさせた花助の行為に、石子は心を打たれた。
「なんて美しいの……」
言葉が、口を突いて出た。
美しい。目の前にいる童は決して美童ではないし、顔も水干も汚れている。しかし、その心は、石子が今までに見た何よりも美しく思えた。
「……私は何故、あんなにも見目の美しさに拘っていたのかしら……」
そう、呟いて。石子は無意識のうちに、桜の花弁を撫でていた。ただ一心に、この一年の時を越えた美しい花を愛でたかったのだ。
「……あっ!」
はっと気付いて、石子は慌てて手を反古から離す。そして、恐る恐る花弁を見た。だが……。
「枯れて、ない……?」
目を丸くした石子に、同じように驚いている花助が息を呑む。
「この花が……時を留めた花だから……でしょうか……?」
石子は、答えない。だが、彼女の中で答えは出ていた。
石子に花を見せたいという、花助の美しい心。それは何人たりとも奪う事ができないものだ。だから、その心で作られたこの花は、枯れる事が無いのだろう、と。
「……花助、お願いがあるの」
意を決して、石子は花助に言った。
「これからも、この時を留めた花を作ってちょうだい。それを……できた時で良いわ。私に見せて欲しいの」
そう言われて、花助は嬉しそうに頷いた。その笑顔もまた美しいと、石子は思った。
◆
それから、花助は時折、時を留めた花を作っては、石子の元に持ってくるようになった。
不思議なもので、花を受け取る度に石子の容色は衰えていく。花や生き物から若さや美しさを奪い取る頻度も、減ってきた。
逆に、これまで石子に触れる事で若さを奪われてしまった者達は、少しずつその色を取り戻していったと、石子は風の噂で聞いた。
時を留める花を手にする事で石子の心が穏やかになり、美しさが不要になっていったのかもしれない。
そして、数年後。すっかり元の容姿に戻った頃に、石子の体は、周りから美しさを奪う事は無くなっていた。
石子の容色が衰えても、花助は変わらずに、花を持ってきてくれる。
それが、石子は嬉しくて。石子が笑うと、花助も嬉しそうで。
そして、今やすっかり大人となり、気働きがあるために邸で重用されるようになった彼の元に石子が夜這いをかけ、花助が困惑したり苦笑したりするようになるのだが、それはまた、別のお話し。
(了)