月落於五丈原――劉禅と諸葛瞻
















月の光が、静かに降り注いでいる。

窓際で月をぼんやりと眺めていた蜀主劉禅は、居室の外から声をかけられ、ハッと我に返った。

「陛下。諸葛思遠がお目通りを願っておりますが」

諸葛思遠とは、この国の丞相、諸葛孔明の子である諸葛瞻の事だ。まだ十にもならない歳だが、魏への北伐で留守にしている孔明に代わり、家を守っていると聞いている。

劉禅は「おぉ」と顔を綻ばせると、すぐに通すように、と言う。それほど待つ事も無く、一人の少年が拱手し、入室してきた。幼いながら、賢さを秘めた目をしている少年だ。

劉禅は人払いをすると、少年――諸葛瞻に近寄るよう声をかける。硬い表情で諸葛瞻が一歩だけ近寄ると、劉禅は苦笑して「もっと寄れ」と言った。

「今宵、そなたがここにいるのは、朕が招いたからじゃ。夜も遅く眠かろうに、よう来てくれた。遠慮せず、もっと寄るが良い」

そこで、諸葛瞻は恐る恐るながらも劉禅の手が届きそうなほどの距離まで近寄った。緊張を解きほぐしてやろうと、卓子にあった菓子を手渡してやると、逆に緊張を増してしまったらしい。これは早く本題に移ってやった方が良さそうだ。劉禅は顔を綻ばせ、優しい声音で呟く。

「丞相達が北伐に赴いてから、どれほどの月日を費やした事か……。皆、元気でやっておるとよいのじゃが……」

その言葉に、諸葛瞻ははっと顔を上げた。劉禅は、優しい声音のまま、言葉を続ける。

「のう、思遠。何ぞ、丞相より書簡は届いておるか? 朕の元に届く書簡は、戦況の報告ばかりで、丞相の様子が微塵もわからぬ。朕に心配をかけぬようにとの心遣いなのじゃろうが……」

息子の諸葛瞻には、何か近況を報せる書簡など届いているのではないか? その問いに、諸葛瞻は緩やかに首を振った。

「いえ、なにも……」

どこか寂しげな表情の諸葛瞻に、劉禅は「そうか……」と残念そうに呟く。

「息子のそなたにであれば、気に掛ける書簡の一つも送ってきているのでは……と思ったのじゃが。如何に丞相が公私を混同せぬ性分とは言え、戦場に女の身一つ。家族が恋しくなる事もあろうに……」

「はい……え!?」

頷いてから、諸葛瞻はぎょっとして劉禅の顔を仰ぎ見た。あっという間に血の気が引き、己の顔が青白くなっていくのがわかる。

顔面蒼白な少年の様子に劉禅は寸の間ぽかんと呆け、そして首を傾げた。

「おや、違ったかの? 男の衣を纏ってはいるが、実際は男に非ず。女だてらに戦場で指揮を執る勇ましき女傑であり、時にはそなたら子の優しき母となる。それが丞相の正体であると思うておったが?」

「な、ぜ……。それ……ほか、には……?」

がたがたと震える諸葛瞻に、劉禅は「あぁ」と合点して頷く。

「恐れずとも良い。今ここには朕とそなたしかおらぬし、この事を知る者も朕の他にはおらぬはずじゃ。気付いた上で黙っている者がいたら、わからぬ話ではあるがのう」

ゆったりとした口調に、諸葛瞻がほっと息を吐く。彼が落ち着いたところを見計らって、劉禅は再び口を開いた。

「何故、と問われてものう……。丞相が女である事を打ち明けられたわけでも、何かを見たわけでもない故、どのように言えばよいのか……。敢えて言うなら、〝そんな気がした〟というところじゃが……」

「そんな気……まさか、勘で父……いえ、母が女である事に気付かれたと……?」

驚き半分、呆れ半分といった顔で、諸葛瞻は呟くように言う。その顔に特に機嫌を損ねる事も無く、劉禅は「うむ」と頷いた。

「知っての通り、朕は物心もつかぬ幼い頃に母上を亡くしておる」

その言葉に、諸葛瞻は発する言葉を失った。そして、黙ったままただ頷く。

劉禅の母である甘夫人は、父親の劉備が荊州にいた時期に身罷っている。その後は他の夫人や侍女達によって養育されたが、真に母と呼べる存在がいたかどうか……。劉備の後嗣、他人の産んだ子。女達は、どうしても遠慮を覚えた事だろう。

「朕は、母上の事はほとんど何も覚えてはおらぬ。真の母というものが、どういうものなのかはよくわかっておらぬと言えるじゃろう。父上も、もう十年以上も昔に崩御された。そして父上は死の床で、弟達に丞相を父と思って仕えよと言うたそうじゃ」

そこで、息を継ぎ。己も孔明を父と思って接しようとしている、と言う。

「だが不思議なものでな……。父と思って接しようとしているはずなのに、気付けば父ではなく母であるような気がしてしまう。丞相に怒られると、父上に怒られたというよりは、よく知りもせぬ母上に窘められたように感じてしまう」

それで、孔明と接する時に少しだけ、意識してみるようにした。すると、服装や話し方はたしかに男なのだが、それでも、少しだけ。ほんの少しだけ、声音や仕草、表情に、女性特有の優しさが見えたような気がしたのだと。そう、劉禅は言う。

「そういった事が重なってな。それで、丞相は女なのであろうと、故あって男の衣を纏い、蜀に力を貸してくれているのだろうと。そう思ったのじゃ。先も言ったが、この事は誰にも話してはおらぬ。話したところで、信じる者もいなかろうよ」

「……はい……」

頷き、そこで諸葛瞻はぶるりと震えた。その様子に、劉禅は「いかんいかん」と慌てて人を呼ぶ。火を熾すよう命じてから、再び諸葛瞻に向き直った。

「朝に晩に、次第に冷えるようになってきたのう……」

「……はい」

諸葛瞻は少しだけ考え、そして頷いた。

蜀の国は暖かい。冷えると言っても、それは夏と比べれば、という程度の話だ。だが、中原は広い。どこの土地も、この蜀のように暖かいわけではない。

「丞相が向かった北の地は、ここよりよっぽど冷える事であろう……」

心配そうに呟き、そして「そうじゃ」と言うと顔を明るくした。何かを思い付いた、という様子だ。

劉禅は自ら部屋の中をかき回し、やがて一着の綿入れを探し出してきた。明るい色の温かそうなそれを、「そら」と言って諸葛瞻に手渡してくる。

「丞相が戻って参ったら、それでくるんでやると良い。お寒かったでしょう、と。そう言って、そなたの父でもあり、母でもある丞相を大切に扱うのじゃ。……朕の分までな」

「! ……はい!」

頷き、諸葛瞻は手渡された綿入れを恭しく押し戴いた。そして、その綿入れで彼の父を、母を、くるんでやるその時を思い描き、少しだけ頬を緩ませる。その様子に、劉禅も頬を緩ませた。



だが、結局諸葛瞻が、孔明をその綿入れでくるんでやる機は、巡ってこなかった。



北伐のさ中、五丈原の陣中で孔明はその一生を終え、遺体は定軍山に葬られた。その墳墓には一切の供物を捧げぬようにとの言が遺され、遺された人々はその通りにする。

しかし、一切の供物を捧げぬようにと言われたはずのその墳墓に、綿入れをかけ与えた者がいる。

誰が供えたかもわからない、その明るい色の温かそうな綿入れは、風に乗ったか、墓泥棒の手に渡ったか。いつしか、その場から消えていた。

今はもう、綿入れが供えてあったか否かなど、誰一人として知る者はない。


















(了)












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