月落於五丈原――司馬懿















清涼な月の光が、降り注ぎ、そこかしこで虫が鳴いている。

北伐に挑む蜀軍の陣を睨む、魏の陣地。その奥深くに据えられた天幕の中、司馬仲達は人知れずため息を吐いた。

此度の戦に限って言えば、魏軍は陣地から出ず、防衛に徹した方が良い。

それ故の持久戦なのだが、それが兵達には伝わらない。蜀軍の挑発に怒りを覚えた将兵が、今日も出陣させろと詰め寄ってきた。

特に今日は、将兵達の怒りが激しかったように思う。

「だが、無理も無い……」

そう呟いて、仲達はちらりと天幕の隅に目を遣った。そこに置かれたのは、質素ながらも良い造作の箱。中には、先日蜀の丞相、諸葛孔明より贈られてきた着物が収められている。

それは、柔らかな生地で作られた女の着物と、美麗な飾りだった。挑発に乗らず、出陣をしない仲達を皮肉るために寄越した物だ。添えられた書簡にはっきりと、「閉じ籠ったままとは、何たる臆病者。まるで婦女子のようではないか。戦いを避けたいのであれば、女人の衣服を纏っていると良い」などと記されていたのだから、他の意味にとりようが無い。

これには仲達も腹を立てたが、それ以上に将兵達が怒り狂った。それでも出陣せぬよう何とか説得し、今に至る。

中には、

「孔明とて、己は戦場に出ず策を弄するばかりの臆病者ではないか。臆病者は女人の衣服をという事であれば、まずは孔明がこれを着れば良い」

などと言い出す者もいた。その言葉を思い出し、仲達は不意に苦笑する。

「……孔明とて、できる事であればそうしたいであろうよ」

意味深に呟き、箱に近付くと収められていた着物を取り出した。

柔らかい生地だ。だが、これはこの生地が元より持っていた柔らかさではない。女人が一枚の着物を大切に着続け、着古した末に生地が得るであろう独特の柔らかさだ。

意匠も、彼の細君や娘達が着ている物を比べると、古めかしいように思う。そして、鼻を近付けると若干、土の匂いが感じられた。

明らかにこの着物は、新品ではない。誰かが長年着ていた物だ。

そもそも、戦場で女人の着物が手に入るものだろうか。

近くに住む者から買い受けたと考える事もできるが、急に用意した割には、着物も飾りも、古いとはいえ良い物だ。そう簡単に軍に手渡せるような物ではないであろうし、孔明の性格上無理矢理奪い取るような真似を兵士にさせはすまい。

ならば、戦場に愛妾を連れてきた将兵でもいたか? 否、将兵の気の緩みに繋がるような存在を、孔明が戦場に許すとも思えない。

……となれば、これらの着物や飾りは将兵の誰かの私物という事になる。特殊な性癖を持つ者が己から言い出すとは考えにくく、家族や恋人の代わりに持ってきている者がいたとしてそれを取り上げるとも考え難い。

可能性を一つずつ潰していき、たどり着いた結論。それは、この着物は孔明自身の物であろうというものであった。

そこまで考えれば、おのずと他の事柄にも思考が向く。

戦場であるというのに、馬ではなく車に載っている事が多い孔明。扇で顔を隠しがちで、被り物も常より大きい物であったように思う。まるで体格を誤魔化しているような……。

彼の細君は、沔南(べんなん)の名士、黄承彦の娘。不美人だが才女であり、聞くところによれば発明を手掛ける事もあるという。不美人というがはっきりと顔を見た者は無く、それどころかその存在を見た者すら近年は稀と聞く。

そして、これまでに見聞してきた、彼の姿勢。

北伐は今は亡き蜀の先帝劉備の、漢王朝復活を成し遂げるという遺志を果たすためと言うが、仲達には、孔明がそれとは違う――蜀が魏の領土を奪い取る事で生まれる事態を目指しているように感じられてならない。

「……恐らく……」

短く呟き、仲達は再び着物に視線を落とす。時の経過による柔らかさと、土の匂い。それらが、仲達の「恐らく」を次第に確信へと変えていく。

「失礼致します」

不意に天幕の外から声をかけられ、仲達ははっと思考から意識を引き戻された。

返事をすると、数名の将兵が顔を見せる。そしてまた蜀の陣に攻め込みたいと訴えてきた。

「何度も言ったであろう? 今は、蜀の陣へ攻め込むべき時ではない。それに、陛下にお伺いを立てる書状を送っておる。陛下のお許しが無いうちは、動く事まかりならん」

そう言って、不満げな彼らを天幕の外へ追い返す。ちらりと見えた空の星に、「やはり……」と人知れず頷いた。

天幕の内へと戻り、一人心の内で、出陣してはならない理由を繰り返す。そして三度孔明より贈られた着物を手に取り、「それに……」と呟いた。

「自らの命を賭してでも、夫の夢を叶え、子たる国を強く育てようとする……。例え己の妻や母でなくとも、そのような烈婦に、せめて戦場には出ず少しでも休んで欲しいと願うのは、それほどおかしな事でもあるまい……」

そして、着物を箱へと戻すと、再びふわりと、土の匂いが鼻を掠めた気がする。その匂いの向こうに、幸せそうに土を耕し、時に並んで腰かけて読書に深ける若い夫婦の姿が見えた気がして。仲達は思わず、目を細めた。
















(了)












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