羿の如く














ゆらり、ゆらりと、美しい扇が波間に泳ぐ。黒革おどしの鎧が、沈んでゆく。

その様子を、馬に跨り、弓を手にした少年は、青褪めた顔で見詰めていた。





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冴え冴えとした月の下、篝火で照らされた陣幕の内から陽気な笑い声がいくつも聞こえてくる。その笑い声を遠くに聞きながら手ごろな岩に腰掛け、那須与一は小さくため息を吐いた。

時は、元暦二(一一八五)年。屋島での戦いで、源氏は平氏を撃退。平氏は四国における拠点を失った。

その戦における功労者の一人が、那須与一だ。休戦状態となった時、平氏方は源氏を試すかのように、扇を立てた小舟に美女を乗せて送り出した。

波で上下するこの扇を、射ち落とせるものなら射ち落としてみよ、という事なのだろう。それを、与一は鏑矢を放ち、見事射落とした。

その時の事を思い出すと、未だに弓手が細かに震える。それを抑えようと、与一は大きく息を吸い、そして吐いた。

「与一。ここにいたのか」

突然背後から声をかけられ、与一は驚いて振り向く。そして、やや困惑した顔で相手に応えた。

「判官殿……」

声をかけたのは、源九郎義経。源氏方の総大将たる源頼朝の弟。そして、此度の戦の大将だ。背後に、郎党の武蔵坊弁慶を連れている。

「どうした? 皆、平氏を追い払った祝いと言って飲んだくれているぞ。混ざってこなくて良いのか?」

「いえ……」

困ったように笑う与一に、義経は首を傾げた。

「どうした?」

再度の問いに、与一は迷うような顔をする。そして、意を決したのか、口を開いた。

「判官殿……己が、怖くなった事はありますか?」

「己が怖い?」

怪訝な顔をする義経に、与一は頷く。

「あの時……あの扇に矢を当てよと命じられた時……私は、死を覚悟しておりました。当たらなければ、腹を掻っ捌いて自害するつもりだったのです。それほどまでに、己がそれを成し遂げる事ができるなどと思えず、自信が無かった。それなのに……」

「それなのに?」

与一は、ごくりと唾を飲んで弓手に目を遣った。先ほどまでの細かな震えは、もう無い。

「当たった。それも、扇だけではなく、その後舞出た武将にまで、立て続けに。それを理解した瞬間、死への恐怖が、綺麗さっぱり消し飛んでおりました。……それまでの自信の無さも、嘘のように」

「それは、良い事ではないのか?」

不思議そうな顔をする義経に、与一は静かに首を振る。

「それだけなら、たしかに良い事かもしれません。ですが……同時に自信が湧き過ぎてしまったのです。己の弓に、射れない物など何も無いのだと……奢る気持ちが湧き出てしまったのです。……その事に気付いた時……」

「己が、怖くなったと?」

頷き、与一は「消えないのです」と呟いた。

「その奢った気持ちが……消えないのです。合戦が終わり、平家が退き、今こうして皆でいっときの楽しみを得ようとする場となっても……いつまで経っても。それでは駄目だと、奢っていてはいずれ身を滅ぼすと己に言い聞かせても。同時に、己は弓の名手なのだから、多少奢っていようが身を滅ぼす事などない、と頭のどこかで考えていて……」

「ふむ……」

与一の話に、義経は唸った。そして、ふと月を見上げると呟く。

「なぁ、与一」

その目は、月から離れない。つられて、与一と弁慶も月を仰ぎ見た。

「お前は、羿(げい)、という者の話を聞いた事があるか?」

「……羿?」

与一が首を傾げて義経を見ると、義経は月を見上げたまま「あぁ」と応えた。

「昔……鞍馬山の僧正房から聞いた話なのだが……」

そう言って、義経は目を細めた。どこか、昔を懐かしむような顔をしている。

「西の大陸に、宋の国が興るよりずっと前……恐らく二千年以上も昔、羿という名の男がいたという伝説があるのだそうだ。その頃、大陸には日輪が十もあったのだとか」

「十も!? そんなにも日輪があっては、世の草木という草木が枯れ果ててしまうではありませんか!」

驚く与一に、義経は苦笑する。

「まぁ、聞け。勿論、お前の言うように……それだけの日輪があれば、草木は枯れ果ててしまう。そこで時の帝が、羿に日輪を何とかするよう命じたのだそうだ。様々な事があったようだが、最終的に羿は、日輪を一つだけ残し、あとは全て射ち落とした」

「日輪を……射ち落とした!?」

与一は、開いた口が塞がらない。見れば、弁慶も目を丸くして義経の事を見ている。

義経は、月から視線を外すと「さて」と言って笑った。

「与一。お前は、羿の如く日輪を射落とす事ができるか? 日輪でなくとも良い。例えば、あそこで清浄に輝く月を、射落とす事ができるか?」

「……いえ……」

与一は、気恥ずかしそうに首を振る。

「私の腕前では、まず日輪や月に矢を届かせる事もできません……。ましてや、射落とすなど……」

そう言うと、義経は「だろう?」と言ってまた笑った。

「お前の弓の腕前は、たしかに凄い。だが、羿に比べればまだまだだ。羿の如き弓の名手となれるよう、これからも精進を続けろ。良いな?」

「……はい!」

力強い言葉を返し、与一は再び月を仰ぎ見た。もう、奢る気持ちはどこからも湧いてこない。





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衣川館(ころがわのたち)から、炎が立ち上がる。館を取り囲む兵達が、鬨の声をあげた。

文治五(一一八九)年、対立関係となってしまった頼朝の圧力により、奥州藤原氏の当主である泰衡が義経を裏切り、義経を匿っていた衣川館を襲ったのだ。

郎党達は防戦したものの尽く討ち取られ、義経は先ほど、妻子共々果てるために持仏堂に籠った。

最後の守りを任された弁慶は、全身に矢を浴びながらも尚持ち場を離れず立ち続けている。数々の矢傷による痛みのためか、既に思考は破たんしていた。

今が昼なのか、夜なのか。郎党は誰が最初からいて、誰がいなくて、誰が討ち取られてしまったのか。何もわからない。ただわかるのは、このまま持仏堂を守り続け、義経を無事に果てさせなければならぬという事。

口惜しい、と、弁慶は心の中で呟く。己を心底惚れさせた、あの主君を。少年の頃より知っている彼を、もっと長生きさせてやりたかった。

己の力が足りないばかりに、それは叶わぬ事となってしまった。ならばせめて、誰にも邪魔されぬ死を。その想いだけが、既に死んでいてもおかしくない彼の足をその場に縫い止める。

新たな矢が刺さり、思わず体がびくりとのけ反った。視界に、太陽か月かもわからない、白く輝く物が入る。

「与一……!」

苦しげに呻きながら、弁慶はその名を呼ぶ。与一が、この場にいたかどうかもわからない。だが、今この時に、呼ばずにはいられない。

「与一……まだか。まだ羿の如き弓の名手にはなれぬのか! 日輪を射落とせ。月を射落とせ! さすれば、この世は闇と化す! 光が無うなれば、牛若が落ち延びる事もできようぞ! 与一、早う! 早う、羿の如く!」

また、矢が突き刺さる。

そこで、弁慶の意識は途切れた。














(了)












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