救われた時





ニナンが生まれたのは、ワクァが推定十一歳の時。傭兵奴隷の任に就いて、一年が経った頃だった。

窓から漏れ聞こえてくる泣き声に、「あぁ、またタチジャコウ家の人間が増えたのか」とうんざりした記憶がある。

主人のアジルを初め、タチジャコウ家の人間は皆、ワクァに冷たい。使用人達もそれは同じで、無関心な態度を取られるのであればまだマシな方。聞こえよがしに陰口を叩かれるのも、いつもの事だ。

だから、新しく生まれた子どもも、きっと成長したら自分を虐げるのだろう。そう、思っていた。

その数日後に、ワクァは新しく生まれた子どもの部屋へと呼ばれる。曰く、守る対象が増えたのだから、さっさと顔を覚えて何があっても守り切れ、という事らしかった。

畏まって、奥方が抱く新生児と対面する。その時だ。

腕の中の、まだ顔がくしゃりとしているニナンが、ふにゃりと笑ったように見えた。

偶然、そう見えただけだというのはわかっている。だが、それでも……誰かに邪気の無い笑顔を向けられたのは、初めてだった。

生まれたばかりの子どもだとか、そんな事は関係無い。その日から、ニナンは少しだけ、ワクァにとって特別な存在になった。

特別な存在と言っても、特に何かをするわけでもない。乳児は基本、侍女が抱いて移動させるもの。外へ出る事も殆ど無く、ワクァが守らなければならない事など無いに等しい。時々、館の中で姿を見掛けるだけだ。それでも、姿を見掛けると、ほんの少しだけ頬が緩むような……そんな気がした。





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それから六年が経ち、事件が起こった。館の中から、ニナンの姿が消えたのだ。家中の者達が総出になって、ニナンを探す。勿論、ワクァもだ。

探しているうちに、街の方へ向かったらしいという話が耳に入る。タチジャコウ家の館は街からほんの少しだけ離れた場所にある。少し歩けば行けそうな距離に、賑やかで楽しい場所がある。子どもなら、冒険心が疼いて一人街へ向かったとしてもおかしくない。

話を聞いてすぐに、ワクァは街へと続く道に飛び出した。





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街へと続く道の途中。横に、小さな森がある。その横を通りかかった時、ワクァはニナンの姿を見付けた。

ニナンだけではない。他に何人かの男の姿がある。だが、タチジャコウ家に連なる人間ではない。迷子を見付けて保護しようとしている様子でもない。あれは……。

「見ろよ、良い服を着た子どもだ。きっと金持ちの息子だぜ」

「見た事があるぞ。こいつ、タチジャコウ家の次男坊主だ」

「本当か? じゃあ、こいつを捕まえて脅せば、タチジャコウ家からたっぷりと身代金を頂けるってわけだ」

誘拐犯だ。そう確信したワクァは、躊躇い無く剣を抜き放つ。

「何をしている!」

鋭く言い放てば、男達がこちらを向く。ヒュウッと、一人の男が口笛を吹いた。

「おっと、タチジャコウ家の傭兵奴隷様がお出ましだ」

「相変わらず、男にしとくにゃ勿体ねぇ顔してんなぁ」

「ついでだ。こいつも捕まえちまおうぜ。この顔だ。男でも、イケるかもしれねぇ。堪能した後、色町にでも売っちまえば、更に儲かるぞ」

「そうだな。こいつならいなくなっても、それほど問題にはならねぇだろう。何せ、奴隷だからな!」

吐き気のするような会話に、ワクァは舌打ちをした。こういう時、本当に己の顔と体付きを恨みたくなる。威圧感のある姿でなくても良い。せめて、女と間違えられる顔と、どれだけ鍛えても肉が付き難い華奢な体、この二つが無ければ、このような会話を聞かずに済むものを。

だが、そんな事を心の中であってもぼやいている場合ではない。このままでは、ニナンも己も危険だ。

「わ、ワクァ……」

六歳のニナンが、恐怖に満ちた目でワクァに助けを求めている。……これ以上、彼に怖い思いをさせたくない。

「ニナン様……すぐにお助けしますので、少しだけ辛抱してください」

言うや、ワクァは剣を構えた。そして、男達を睨み付けながら密かに言葉を口にする。

「すぐに終わらせる……全力でいくぞ、リラ!」

剣の名を呼び、駆ける。白銀の刃を閃かせ、ワクァは男達の懐に躍り込んだ。

剣を一閃する度に、男達は足を、腕を、傷付けられていく。顔と体躯に似合わぬ剣技と動き、そして気迫に、男達は恐れおののいた。

そして、それほど経たぬ間に、男達は全員、その場から身動きが取れなくなった。誰も死んでいないが、足や腕を抑えて呻いている。

己は無傷のままニナンを助け出したワクァは、ニナンに怪我が無い事を確認するとホッとする。

「ご無事で何よりです……」

それだけ言ったところで、ワクァは言葉を止めた。本当は、何故一人で館を出たのかと問うたり、早く戻ろうと促したりしたかったのだが。

ニナンが、きらきらと瞳を輝かせてワクァの事を見ている。

「……あの、ニナン様……?」

「すごい! ワクァ、つよいんだね!」

興奮した様子で、ニナンはワクァに抱き付いてきた。そして、「すごいすごい」と連呼する。

「あ、あの……?」

今まで、こんな反応をされた事は一度も無い。抱き付かれた事は勿論、凄いと言われた事も、こんな風に好意的な顔を向けられた事も。

何も知らない子どもだからだろうか?

……いや。長男のイチオからは、こんな態度を向けられた事が無い。彼はいつも、ワクァの事を蔑み、馬鹿にして面白がっている。

イチオはタチジャコウ家の後継ぎだから、特に奴隷に厳しくあたるよう教育されているのだろうかとも思うが、それにしたってイチオとニナンの差が激し過ぎる。

どうやらこれは、ニナンの天性の性格だ。

ふと、ニナンが次のタチジャコウ家当主だったら、どれほど良いだろう、とワクァは思った。ニナンが当主なら、きっとワクァに辛く当たらない。

だが、それは叶わぬ夢だ。実際のところニナンは次男で、言い方は悪いがイチオの予備だ。そして幸か不幸かイチオは性格こそあんな風だが能力的には何の問題も無く、体も健康そのもので、イチオの代わりにニナンが次期当主になる事は現時点では有り得ない。

本当に、ニナンが次期当主だったら……誰からも「若君」「若」と仰がれる立場だったなら……。

「……旦那様や奥様が心配なさっています。そろそろ、戻りましょう……若」

こっそりと、小さな声で呟いてみた。すると、聞こえたのだろう。ニナンはきょとんとした顔で首を傾げている。

「わか?」

意味がわかっていないのだろう。そんな彼に、ワクァは少しだけ考えて告げる。

「何が何でも守りたい相手……という意味だと思って頂いて構いません」

そう言ってから、ある事に思い当たり少しだけ慌てた様子で言い足す。

「あの……俺がニナン様の事を若、などと呼んだ事は、内密に……」

「ないみつ?」

「えっと……あの、内緒で!」

「ないしょ話?」

楽しそうな顔で、ニナンが目を輝かせた。そんなニナンに、ワクァは激しく首を振る。

「そうです、内緒です!」

すると、ニナンは「えへへ……」と嬉しそうに笑った。そして、言う。

「じゃあ、ワクァ。これからはぼくとワクァだけの時には、またわか、って呼んでも良いよ! ぼく、ぜったいないしょにしておくから!」

「……はぁ……」

ほっとしたような、気が抜けたような。そんな心持ちで、ワクァは生返事をした。

そして、今度こそ館に戻ろうと、ニナンの手を引く。ニナンは、嬉しそうにワクァの手を握り返してきた。

その手の温かみを感じながら、ワクァは密かに思う。

この子を、ずっと守っていこう。

たしかにこの子は、タチジャコウ家の次期当主ではないかもしれない。成長してワクァの立場を知れば、他の者達同様に蔑むようになってしまうかもしれない。

それでも、今、この子はたしかに、自分に笑顔を向けてくれて、自分の手を握り返してくれた。

これだけで、己は本当に救われた気持ちになったのだ。だからこそ。

ずっと守ろう。命を懸けてでも。





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「光を意味する名前……ですか?」

ヒモトが少し不思議そうな顔をして、言葉を返した。それに対し、ワクァは頷く。

もうすぐ生まれる第二子の名前を決めなければならないのだが、相変わらずワクァは名前を考えるのが苦手だ。

そして、トヨの時に名を考えたのはヒモトだし、できればトヨと似たような名前にしたいという希望もある。

そこで、ヒモトに問うたのだ。

光を意味する、テア国の名はあるか、と。

「いくつもございますが……何故?」

「後継ぎは、もうトヨに決まったようなものだからな……」

そう呟き、そして心の内をヒモトに晒す。

タチジャコウ領にいた頃、次男のニナンに何とか光が当たらないかと思った事。

テア国で、ホウジが「次男だから」という言葉を口にした事が、ずっと引っ掛かっていた事。

「トヨも、次に生まれてくる子も……どちらも大切にするつもりだが、やはり立場上、長男であるトヨに人々の目は行きがちになると思う。だが、俺はこの子にも光が当たる人生を歩んで欲しい……と思うんだが……」

そう言うと、ヒモトは「そういう事でしたら」と笑う。

「いくつか、候補を考えさせて頂きます。ですが、最後にどの名に決めるかは……ワクァ様、貴方様のお仕事ですよ?」

「わかっている」

苦笑して頷き、そしてワクァは珍しく自室の机に向かってペンを走らせる。

書いている物は、これまたワクァにしては珍しい手紙。相手はタチジャコウ家当主となっているニナンだ。

ニナンとは、今では時々手紙をやり取りするようになっている。……と言っても、今となってはワクァは軽々しく行動を晒す事ができない国王の身。自然、ニナンの近況を聞き、それに対して返事をする程度になってしまっている。

滅多に城から出られなくなってしまった今、ニナンから届く手紙は数少ない楽しみの一つだ。

「本当に……若には救われてばかりだ……」

「若とは……?」

思わず口にした言葉に、ヒモトが不思議そうな顔をする。

そんなヒモトに苦笑して、ワクァはペンを置く。そして、どこから説明したものかと、言葉を探し始めた。








(了)











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