ドラゴン古書店 読想の少女と二匹の竜









第16話■人間の啓発本<2>■








 吐き気を抑えるように口を手で覆い隠しながら、ニーナは視線を本から引き剥がした。

「ニーナ! どうした!」

 ツヴァイの呼びかけに、ニーナは言葉無く首を横に振る。目から、ぽろぽろと涙が溢れた。

「こわいです……」

「怖い?」

 首を傾げて、ツヴァイが本の中を覗き込んだ。アインスほどではないが、ツヴァイも人間族の文字ならある程度読める。書を綴る行為が主に人間族に好まれるものである事、古書店に持ち込まれる本の多くが人間族の本である事を考えれば、彼らに人間族の文字を読解する能力は必須だからだ。

 だから、この本に何が書いてあるのか、ツヴァイにも読める。ツヴァイにとって中身は無いに等しいが、恐れるような事が書かれているようには見えない。

「兄者……」

 助けを求めるように、ツヴァイはアインスを呼んだ。アインスは「どれどれ」という顔付きで本を覗き込み、同じように首を傾げる。

「特に恐ろしいと感じるような表現は無いように思うが……。ニーナ、お前は何を怖いと感じた? 教えてくれぬか?」

 アインスに問われ、ニーナはビクリと震えた。しかし、意を決したように前を見ると、恐る恐る口を開く。そして、呟くように言った。

「不幸になれ、って思ってたんです。この本を書いた人……。お金を稼ぎたいって。だから、本を作って売るんだって……。確実に幸せに生きる方法なんて無い……けど、幸せに生きる方法を書いた本だって謳っておけば、不幸な人は買うからって。……不幸な人が多ければ、その分、本が売れるから……。だから、みんなもっと不幸になれって……」

 ニーナの話に、ツヴァイは唖然とした。アインスも、目を見開いている。そして。

「ちょっとちょっと、いい加減な事を言うのはやめてくれないかい、お嬢さん?」

 人間が、気を悪くした様子でニーナとドラゴン兄弟の間に割り込んできた。

 ニーナは小さな声で伝えたつもりだったが、ニーナからドラゴンへと言葉を伝えるには、体格差から考えてもそれなりに大きな声を出す必要がある。だからこそ、人間にも聞こえてしまったようだ。

「この本の作者が、人が不幸になる事を願っている? そんな馬鹿な。わざわざ他人の不幸を願うような奴があるかい。この本の作者はなぁ、正真正銘、心の奥底から、みんなが幸せに生きる事を願っているんだ。だから手間暇かけてこの本を作って、幸せになる方法を教えてあげようとしてるってのに。人間は、誰もそれを理解しようとしない。お嬢さんも、ドラゴンと一緒にいるならひょっとして……と思ったが、やっぱりその人間達と同じだな。良い物を悪く言って、認めようとしない。そんな奴らが、人を不幸にするんだ。極悪人だよ。だから、人間は見限られるんだ。この本を他の種族に売りたいっていうのは、そういう理由があるからだ」

 人間の責め立てるような言葉に、ニーナの顔色がどんどん悪くなっていく。見るに見かねたツヴァイが、人間を睨み付けた。

「おい、貴様。貴様が何をどう思おうと勝手だがな、うちの従業員を泣かせても良い理由にはならんぞ」

「泣かせていませんよ。事実を述べただけだ。大体、この程度で泣き出すなんて、そのお嬢さん、心が弱過ぎるんじゃありませんか? 心が弱い上に、人の本を悪く言う。どんな経緯があったのか知りませんがね。こんな子、いつまでも雇ってちゃあ駄目ですよ。なんなら、良い子を紹介しましょうか? 気が利いて、理解力があって、このお嬢さんよりよっぽど役に立つ子を一人知っているんですよ」

「なんだと……?」

 今にも炎を吐き出しそうな形相で、ツヴァイは更に人間を睨む。だが、開き直ってしまったのか。

「焼き殺したければお好きにどうぞ。ただ、ここでは店内での争い事はご法度という決まり事があると聞いているんですがね。それを店の関係者自らが破ってしまって良いんですかねぇ?」

 人間は、ツヴァイの睨みを恐れる事無く、こんな事を言ってくる。

 店内での争いはご法度。それを店の関係者が自ら破るのは、たしかにまずい。返す言葉に困り、ツヴァイはギリ……と歯噛みをした。

 その横では、アインスが表情を変える事無く本をぱらぱらとめくっている。そして一旦本を閉じると、再び表紙を開いた。そこで、「ふむ……」と呟く。

「買い取り希望との事だが、身分を証明する物は持ってきているか? これだけの量となると、真実がどうあろうと何らかの疑惑は出てくる。お前がどこの誰なのかわからない以上、こちらも買い取りには応じ難いのだが」

「兄者! この男の本を買い取るというのか?」

 憤慨してツヴァイがアインスに詰め寄る。それを、アインスは「落ち着け」と言いながら制した。

「まだ、買い取ると決めたわけではない。決めるのは、身分証を確認してからだ」

 アインスはそう言っているが、人間は既に買い取って貰えるものと思っているらしく、嬉しそうな顔をしていそいそと鞄を漁り出した。

「いやぁ、やっぱり店長を務められている方は違いますねぇ。この本の良さを理解して、買い取ってくれるだなんて。それも全部! 嬉しいったらありゃしない!」

 そう言って、人間は喜々として一枚の紙を取り出した。名前と生年月日、居住地が書かれている。役所で発行してもらえる、公的な身分証明書だ。

 それと、人間と、本と。三種を見比べて、アインスはため息を吐いた。

「やはり、そうか。この本の作者は、お前だな?」

 言うや、アインスは身分証明書と本を机に置いた。本は、著者近影が見えるように開かれている。

 作者名と身分証明書の名前は、一致していた。著者近影の似顔絵と、目の前の人間の顔は、酷似していた。それはつまり、この本の作者は目の前にいる人間という事で。

「あぁ、やはりわかりますか。それで? 一冊いくらで買い取って頂けるんですか?」

「値段はつかない」

 真顔でアインスが答え、場は一瞬、静まり返った。だが、人間がすぐに持ち直し、言う。

「いやいやいや、面白い事を仰いますねぇ。値がつかない。それは、値段がつけられないほど、この本が素晴らしいという事ですよね? そう言ってくださるのは嬉しいんですがね、やはり買い取って頂くからには、具体的な数字を出して頂きませんと……」

「そういう意味ではない。この本には、銅貨一枚分の価値も無い」

 今度こそ、場は水を打ったように静まり返った。

「……は?」

 言葉を失くした人間に、アインスはたたみかける。

「まず中身だが、酷いな。それらしい事を書いてはいるが、どれも薄っぺらで説得力が無い。文章力も無いに等しいな。校正も言葉遣いも滅茶苦茶で、読んでいるだけで疲れる。最後まで行きつく事が困難だ。それでも中身が充実していれば勢いだけで読み進める事も可能なのだろうが、先程言ったように、この本の中身は薄っぺらで説得力が無い。古書店に売りに来たくなるほど売れないのも頷けるな。このような本では、代金を支払って買う者はほとんどいないだろう」

「な……な……」

 言葉を見付けられずに戦慄く人間を前に、アインスは深くため息を吐いた。

「私は、人間にとっての幸せとは知識でしか知らぬが……少なくとも、今このように怯え、泣いてしまっているニーナは幸せではないのだろう、という事はわかる。そして、ニーナを怯えさせ泣かせたのはお前で、泣いたニーナの事を『心が弱い』と言って追い詰めたのもお前だ」

 そう言って、アインスはニーナの頭を撫でる。前足の指を使って、爪で傷付けたりしないように、優しく、ゆっくりと。

 ニーナの顔がホッと緩んでいく様子を見ながら、アインスは言葉を続ける。

「お前がした事は、人を幸せにするのとは真逆の行為だと思わぬか? そして、そんなお前が書いたという、『皆が幸せに生きる方法』を書いた本とやら。とても信用できるものではない」

 そして、信用できない本を売る事は、この店の信用に関わる。だから、この本を買い取る事はできない。

「そんな……そんな……そんな娘のために、客を拒むのか! 一体何様のつもりだ!」

「貴様こそ、何様のつもりだ! 貴様はこの店で本を買った事もなく、まともな本を売りにきた事も無い。ただ売れ残っている不良在庫を押し付けにきただけではないか! 誰が客だ!」

 怒鳴った人間に対し、ツヴァイが怒鳴る。それに対して、人間も怒鳴った。

「良いのか? 客でなくても争いごとはご法度だろう! 店の信用が落ちるぞ!」

 その言葉に、ツヴァイは一瞬怯んだ……が、すぐに持ち直し、更に声を荒げる。

「貴様のような客を放置しておく方が信用が落ちる! 貴様の持ち込んだその本も、争いの元だ! 従業員を傷付けるような者を、いつまでも店内に置いておけるものか! 今すぐ出ていけ!」

 ツヴァイの怒鳴り声に呆然とし、人間はアインスの方を見た。アインスは静かに会計机の横に立ち、人間を見下ろしている。

「私も弟と同意見だ。今すぐに出ていってもらおう。これ以上、この店を汚らわしい言葉で穢さぬ事だ」

 人間は、最後の望みと言わんばかりにニーナの方を見た。だが、ニーナはすっかり怯えてしまい、ツヴァイの方へ駆け寄ると、その手の陰に隠れてしまった。

 万事休す。

 そう、感じ取ったのだろう。人間は一言、「ふざけやがって!」と叫ぶ。

 そして、机に置かれた身分証明書と本を回収し、本が三十冊は入っているであろう木箱を抱えると、不機嫌を隠さぬ足取りで店から出ていった。

 扉が閉まる音に、ニーナがホッとする。

「……その……大丈夫だったか、ニーナ?」

 言葉を探しながら、ツヴァイが声をかける。それに対してニーナはこくりと頷いたが、すぐにボロボロと泣き出した。

 怖かっただろう。汚い言葉を浴びせかけられて、辛かっただろう。あの人間の想いが詰まった文章を目にして、他人の不幸を願うような想いに当てられて、苦しかっただろう。

 そしてきっと、今のニーナには誰かの言葉を受け入れている余裕は無い。

 そう判断したツヴァイは、爪で傷付けぬよう慎重にしながら、前足の指でそっとニーナの頭を撫で続けた。

 そしてその様子をアインスは眺め、次いで店内をぐるりと見渡す。多くの書架に収まったたくさんの本を眺めながら、アインスは誰に知られる事も無く、深い溜め息を吐いた。






















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