亡国の姫と老剣士













辺り一面、岩と砂礫ばかりでした。視界の中に草木といえる物はほとんど見当たらず、川や湖のような水気も感じられません。両側面は険しい崖が聳えています。この場所はいわゆる、切り通しという奴のようです。

その岩壁に寄りかかるように、一人の老人が立っていました。腰には銀色の美しい――しかし妙に時代を感じさせるように汚れた剣を佩いています。肩口で一括りにした白髪の多い髪の毛は、遠目に見ると灰色に見えます。肌は褐色に焼け、眼元・口元の深い皺は険しい目つきを和らげるのに一役買っています。相当の年であるだろうにピンと伸びた背筋、未だ衰えているように見えぬ筋肉は老人がただの老人でない事を物語っています。

老人の耳が、ぴくりと動きました。体の向きを変えず、首も動かさずに老人は視線だけ動かしました。

次の瞬間、ガゴゴゴゴ……という音と共に、一つの巨岩が動き始めました。岩が動くと同時に、その向こうから暗い穴が姿を現し始めます。老人は、特に慌てるでもなく身構えるでもなく、その様子を見つめ続けています。やがて穴は大人の男が二人は通れるほどの大きさになり、そこで岩の動きは止まりました。

続いて、穴の向こうから元気の良い声が聞こえてきます。

「これなんか、特におすすめだがね。これを飲むと一時的に魔力が大幅に増えて、誰でも一回だけ魔法が使えるようになりゃーすよ」

「けどさ、魔力が増えただけじゃ魔法なんか使えないだろ? 確かに使えたら便利だけどさ……」

「だから、これと一緒に買おまい。この本に載ってる魔法は、どれも初歩中の初歩で簡単だに。やる気と魔力さえあれば、誰でも使える魔法だぎゃー」

「……ねぇ、パル。この会話、もう五回目くらいな気がするんだけど……」

「だから、ティグ兄ちゃんがこの本と薬のセットを買ってくれりゃー、この会話もすぐに終わるがね……あっ!」

 声の主――パルが、老人の姿に気付いたようです。パルは嬉しそうに顔を綻ばせると、老人に向かって駆け出しました。

「フィル爺ちゃん!」

パルが駆け寄ってくると、フィルと呼ばれた老人は険しい顔つきのまま、パルの頭を軽くコツンと殴りました。

「痛っ! フィル爺ちゃん、痛いがね。何しやーすの?」

パルが非難めいた目でフィルを見ます。すると、フィルは低く張りのある声で言いました。

「騒ぎ過ぎじゃぞ、パルペット。敵に見付かったらどうするつもりじゃ?」

静かに淡々と問うフィルに、パルはぷーっと頬を膨らませました。そして、口を尖らせて言います。

「見付かったら、自分の魔法でどかんと一発やってまえばええ。それに、今回は騎士のティグ兄ちゃんも一緒だで。接近戦になっても大丈夫だがね」

「……ティグ?」

そこでフィルは、初めてティグの方を見ました。その鋭い視線に見詰められ、ティグは思わず後ずさります。

「あ、あの……初めまして。僕はティグニール・ジン・クリアと言います。あの……あなたは?」

「……フィル、と呼ばれておる」

フィルは、静かにそれだけ呟きました。会話が続きません。ティグは、困ったようにパルを見ました。ですが、パルはただニコニコとしているだけです。どうやらパルは会話で助けてくれる気はないようだと悟ったティグは、恐る恐る会話を続行しました。

「あの……パルが言うには、貴方はツィーシー騎国が滅びた時姫様の最も近くにいたと……」

「いかにも」

「…………」

一言で会話が終わってしまいました。ですが、ティグは挫けません。何とか会話を続けようと、言葉を探します。

「僕は、つい先ほどまで姫様の監視役として姫様の御前にいました。それで、姫様に言ったんです。ここから逃げましょう、って」

その言葉に、フィルの眉がぴくりと動きました。それに気付かないまま、ティグは言葉を続けます。

「けど、姫様は逃げるわけにはいかない、と……そう仰りました。待っている人がいるから、と……」

つい先ほどの出来事が、まるで遠い昔の事であるように思われます。ティグは、その一瞬一瞬を思い出しながら喋りました。喋るうちに、段々気持が高ぶっていくのがわかります。

「けど、僕は姫様をお助けしたいんです。……騎士となって、姫様を守る事が僕の夢でした。姫様をお助けしたい。そして、姫様に笑って頂きたい! ……けど、それは僕一人じゃ駄目なんです! 姫様が待っていらっしゃる、その誰かがいなければ……」

そこまで言って、ティグは一度言葉を切りました。そして、フィルの方を見ます。

「だからフィルさん……貴方に教えて欲しいんです! 姫様が待っていらっしゃるのが誰なのか、どこにいるのか……。姫様の近くにいた貴方なら、ご存じなのでは!?」

そこで、ティグは口を閉じました。フィルの目を見詰め、フィルの言葉を待っています。すると、フィルは少しだけ寂しそうな目をして、呟きました。

「……そうか。姫様は、まだ待っていらっしゃるのじゃな……」

「……フィルさん?」

フィルの言葉に、ティグは首を傾げました。フィルは、体をティグの方に向けると少しだけ先ほどよりも優しい顔になり、言いました。

「ティグニール……と言ったな?」

「え? あ……はい」

いきなり名を呼ばれ、ティグは少しだけ驚きながら返事をしました。そんな彼に、フィルは言葉を続けます。

「残念ながら、私は君の質問に答える事はできん。だがな、君にいくつか忠告する事はできる」

「……忠告、ですか?」

ティグが怪訝そうな顔をして言うと、フィルは頷きました。そして、再び顔を険しくして言います。

「まず君には注意力が足りな過ぎる。……君はパルペットと私の様子を見て私が味方だと判断し、私に姫様の話をした……そうじゃな?」

「……そうです」

ティグは、フィルの意図がつかめず、ただこくりと頷いた。

「それがいかん。もし私がパルペットと仲が良いだけでツィーシー騎国とは全く関係の無い人間だったらどうするつもりじゃ? 今はマジュ魔国が勢力を伸ばしており、大抵の国はマジュ魔国……しいては、マジュ魔国の王ヘイグを恐れておる。ツィーシー騎国以外の人間にメイシア姫様の話をすればそれだけでヘイグに通報されてしまうじゃろう」

「……あ……」

フィルの言葉に、思わずティグは自分の口を押さえました。フィルは、たたみ掛けるように言います。

「そして、姫様をお助けする話じゃ。私とて、昔は姫様のお傍にいた身じゃ。君の気持はよくわかる。姫様をお助けしたいし、できる事ならば姫様の笑顔を見たいと思っておる。じゃがな……。例え待ち人を見付け、連れていく事ができたとしても……姫様は素直に喜ぶまい……」

「何故ですか!?」

ティグは叫びました。フィルの言葉に納得がいかない……そんな顔です。そんなティグに、フィルは寂しそうに言いました。

「忘れたのか? 姫様には、ヘイグによって不老不死の呪いがかかっておる。その呪いを解かぬ限り、姫様は永遠に死なぬし、歳をとる事も無い……」

「だから? だから何だって言うんですか!? 何でそれが、姫様が喜ばない理由になると……」

「まだわからぬか!」

感情的になったティグに、フィルは一喝しました。大音声にティグは勿論、傍で聞いていたパルまでもがびくっとしました。

「よく考えてみろ。姫様は歳をとる事はない……だが、姫様以外の人間は歳を取り、やがて死ぬ。それは君とて例外ではない。姫様は変わらぬのに、周りはどんどん年老いて死んでゆく……それを姫様が喜ぶと思うておるのか!?」

「! それは……」

ティグが言い澱むと、フィルはティグに背を向けました。そして、暗い面持ちで言葉を紡ぎます。

「姫様を真にお助けするには、姫様の呪いを解かねばならん」

「姫様の呪いを……どうやって、ですか!?」

ティグはがばりと顔を上げ、問いました。すると、横で少し暇そうに二人のやり取りを見ていたパルが口を挟みます。

「言うだけだったら簡単な事だがね。お姫さんに呪いをかけたのはマジュ魔国の王、ヘイグ。だったら、ヘイグを倒せばお姫さんの呪いは解ける。そういう理屈になるがね」

「ヘイグを……倒す……」

パルの言葉に、ティグの瞳に力強い光のような物が宿りました。今にもヘイグを倒しに駆け出しそうです。そんなティグに、フィルは鋭く言います。

「やめておけ。今はまだ、その時ではない」

その言葉に、ティグは激高しました。思わず声を荒げ、叫びます。

「なら、どうしろって言うんです!? ヘイグを倒さなければ姫様の呪いは解けない……。姫様の呪いが解けなければ、姫様を本当にお助けする事はできない……。なのにヘイグを倒してはいけない……それじゃあ、姫様をお助けする事は永遠に叶わないじゃないですか!」

憤慨するティグに、フィルはあくまで淡々と言いました。

「倒すな、とは言っていない。ただ、今はまだその時ではないと言っているだけだ」

「じゃあ、いつなら良いんです!?」

苛々と言葉をぶつけるティグに、フィルはふぅ、とため息をつきました。そして、子どもを諭すようにゆっくりと言葉を発します。

「姫様の呪いは、確かに私や君……ツィーシー騎国の民や、姫様自身からしたらこれ以上ないほど残酷な呪いだ。姫様は、自分だけが変わらぬまま周りが年老いて死んでゆく。民は、そんな姫様をお助けする事ができないまま年老いて死んでゆくしかない」

「そうです! ですから、一刻も早く姫様の呪いを解かないと……」

「だが、栄華を極めた者からすれば、それは呪いでも何でもない」

「……え?」

フィルの言葉に、ティグはふ、と冷静になりました。フィルの言葉の意味を飲み込もうと、頭を回転させます。すると、その答えを待たぬまま、フィルは言葉を続けました。

「不老不死は、太古の昔より栄華を極めた為政者達が欲してきた。ツィーシー騎国を滅ぼし近隣諸国を抑えたマジュ魔国の王であるヘイグが、他人を不老不死にしておきながら自らを不老不死にしないわけがあろうか」

「……じゃあ、まさか……!」

フィルの言葉に、ティグが目を見開きました。フィルが、無言で頷きます。

「マジュ魔国の王、魔術師ヘイグは不老不死。それも、お姫さんにかけた奴よりも何倍も強い呪いがかかっている。ちょっとやそっとじゃ、倒すどころか傷つける事すらできにゃーがね」

パルが、渋面をこしらえて言いました。ティグは、呆然として呟きます。

「そんな……ヘイグが、不老不死……? それじゃあ、何年待っても、どれだけ修行をしても、奴を倒す事なんかできないじゃないか……。けど、だったら姫様の呪いは……」

絶望したようにブツブツと呟き、悔しそうに歯を食いしばります。しかしティグは、ギュッと拳を握り締めると顔を上げ、「いや……」と言いました。その声に、フィルとパルがティグを見ます。

「だからって、希望が全て断たれたわけじゃない……。不老不死と言ったって、元は普通の人間なんだ。身体が鋼鉄でできているわけじゃない……。歳を取らなくて死なないって事は、ただ単に自然死をする事が無いってだけの事じゃないのか? ……なら、懐に飛び込んで、一息に首を切り落とす事ができれば……」

物騒な言葉を続けるティグに、フィルは顔をしかめました。そして、険しい声でティグに言います。

「逸るのはよせ、ティグニール。ヘイグを倒すというのは、それほど単純な事ではないぞ」

「じゃあ、いつまで待てば良いんですか!? 十年? 二十年!? その時ではないとか、逸るのはよせとか……そんな事を言うなら、教えてくださいよ! ヘイグを倒すにはどうすれば良いのか! それには一体どれだけの時間がかかるのか!」

それだけ叫ぶと、ティグはくるりとフィルに背を向け、歩きだしました。

「どこへ行く?」

フィルが問うと、ティグは顔だけフィルに向けました。そして、棘を含んだ声で言います。

「マジュ魔国ですよ。ヘイグを倒しに行くんです! そして、姫様の呪いを解いて……姫様をお助けします」

それだけ言うとティグは再び前を向き、今度は振り返る事無く歩き続けました。その姿を見て、フィルは呆れたように溜息をつきます。そして、傍らで事の成り行きを見守っていたパルに言いました。

「どうやら、とんでもなく短気で熱血な奴を拾ってきたようじゃな、パルペット」

「うん。自分も、ティグ兄ちゃんがあそこまで気が短いとは思わなかったわー。けど、何か前に聞いたフィル爺ちゃんの若い頃に似とる気もするがね」

その言葉に、フィルは目を瞬かせると、ふっ、と優しく微笑みました。そして、すぐに気を引き締めるとパルに向かって言いました。

「このままみすみす死なせてしまうわけにもいくまい。パルペット、ティグニールを追って、彼を手助けしてやれ」

言われて、パルはにやりと笑って問います。

「手助けって、フィル爺ちゃんはティグ兄ちゃんがこのままヘイグを倒せると思っとんのかね?」

すると、フィルはまたも顔を険しくしてパルに言いました。

「馬鹿を言うでないわ。現時点でそれは無理だという事は、何度も話したはずじゃろう? 手助けとは、ヘイグを倒す手助けではない。彼が逃げる手助けじゃ」

「わかっとるがね。ところでフィル爺ちゃん、ティグ兄ちゃんと自分が上手く逃げおおせたら、何処に行きゃーええ?」

パルの問いに、フィルは暫く腕を組んで考えました。そして、東の空を見ながら言います。

「マジュ魔国の東に、町がある。大きくはないが、そこそこ栄えていて、賑やかな町じゃ。私はまず、そこへ行こうと思うておる」

そう聞いて、パルはうーん、と頭を捻りました。やがて、記憶の中のある情報に行き着いたのか、ぽん、と手を打ちます。

「ああ、あの大きな川のほとりにある町かね!」

パルの言葉に、フィルは頷きます。

「そうじゃ。私はそこで一週間、お前達を待つ。一週間待っても来なかったら先に行くからな」

「わかったがね。けど、東の川のほとりにあるあの町に行くって事は……フィル爺ちゃん、遂に覚悟を決めたんかね?」

パルが、頷きながらフィルに問いました。その問いに、フィルは遠くを見ながら呟きます。

「覚悟を決めた……そうじゃな。情報も、武器も……。必要な条件は皆揃った。あとは私の決断次第じゃったというわけか……」

「……フィル爺ちゃん……」

フィルの遠くを見る目に、パルが心配そうに声をかけました。その声に我に帰ったフィルは、パルを急き立てるように言います。

「ほれ、早く行かぬか。ティグニールの姿は、とうに見えなくなっておるぞ」

「へっ? ……ああっ! ティグ兄ちゃん、歩くの早過ぎだがね!」

そう言って、パルは慌てて走り出しました。その後姿を見送りながら、フィルはそっと呟きました。

「姫様……長い事お待たせしてしまい、申し訳ございません……。今度こそ、お救い申し上げます。……今度こそ……!」

そして彼は、東の空を仰ぎ見ました。そこには黒い雲が漂っています。遠雷の音が聞こえてきました。





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