葦原神祇譚






18







「とりあえずジャブ的に聞かせてもらうけどよ。ウミが伊弉諾尊じゃなくて、闇産能天滅能尊なんて名乗ってる理由はわかった。生まれ変わった存在である瑛や礼、奈子や彦名に新しい名前があるのも、わかる。……で? 天と要は何でわざわざ別の名前を使ってるんだ? 正体を隠しているわけでもなし。必要無ぇだろ」

「前世の記憶を持たない地祇の生まれ変わりや、朝来達のような神じゃない者相手に天照大神だの八意思兼神だの名乗っても滑稽なだけだろう? 今までずっと高天原に籠ってはいたけど、時代が流れている事ぐらいはボクにもわかっているつもりだよ。それに、現代の名を持っている奈子達に合わせた名前を持っていた方が、コミュニケーションもとり易そうじゃないか」

質問として放たれた仁優のジャブを軽くかわし、天は「で、他に訊きたい事は?」と逆に問うた。場所は指令室――仁優がここに来た日、最初に通された部屋だ。

何でも訊けと言わんばかりに問われ、仁優は困ったように周りにいる顔を見渡した。今ここにいるのは、仁優を含めて十三人。瑛、天、要、奈子、彦名、神谷に夜末。オロシとマドカ、それに礼も同席している。そして、新顔――ウミとライもいる。

殆どの顔が、「何か解禁になったっぽいし、訊かれたら何でも答えてあげるから何でも訊いて」と言っている気がする。結局、ほぼ何もわかっていなかったのは自分だけなのかと思うと空しくなるが、クサクサしていたところで何がどうなるわけでもない。気持ちを切り替えて、仁優は相手を特定する事無く問うた。

「えーっと……じゃあ、何で黄泉族は葦原中国を滅ぼそうとしていたのか、何でウミ達は造化三神に従っていたのか、でもって、何で裏切る事にしたのか。えっと、あとは……」

「一旦、そこで止めておいた方が良いんじゃないかナ? どれもこれも一言で応えられるような質問じゃないし、一つ答えてる間に質問を忘れちゃいそうだよネ」

彦名に言われ、仁優はもぐもぐと空気を食べるように口を噤んだ。その様子を見て楽しそうに笑ってから、一同は顔を見合わせた。「誰が答える?」と視線で相談しているようだ。

「内容的に、私とライが説明するのが良さそうだな」

同意するように周りが頷くと、ウミは傍にあった椅子に腰掛けた。奈子と彦名の力で奇跡的な回復の早さを見せたとは言え、長時間立ちっ放しで話し続けるのはまだ辛い物があるのだろう。

「説明が比較的容易な物から説明させてもらうが……まず私達が造化三神に従っていた理由は、私達だけでは勝てないからだ」

「瑛様からお聞き及びかもしれませんが、造化三神の力は強大なもので……しかも、黄泉の空気に中てられて正気を失ってしまっている為に容赦がございません。黄泉族の者達も、相手が伊弉諾様、伊弉冉様よりも更に古い神だと知ると気後れしてしまい、従わざるを得なかったのです」

「それに、先の戦いの場にいた者なら見ただろうが……奴らの攻撃を受けると、そこは闇と化してしまう。あれを喰らって死んでも、転生はできるのか? できなかったら、どうなってしまうのか? 今まで死を恐れていなかった黄泉族にとっては、恐怖すべきものだろう。私とて、少彦名神と石長比売の治療で一命を取り留めたが、それが無ければどうなっていた事か……」

そう言って、ウミは自らの胸に手を当てた。その様子を痛ましそうに瑛が見詰め、礼が困惑した顔をする。礼は、自らを殺した者に対する恐怖と、命に関わる傷を負った者への同情が心の内でせめぎ合っているのかもしれない。

「闇化する原因は、造化三神の……何て言うのかナ? 混沌の欠片みたいな物だったからネ。それを取り除けば、更なる闇化は防げたヨ。あとは、鎮痛剤として桃仁を服用してもらったくらいかナ?」

「桃仁と言うと……桃の種から作る漢方薬か」

神谷の呟きに、彦名は「そうそう」と頷いた。

「先に言っておくケド、薬っていうのは使い方をちょっと間違えただけで毒にもなり得るんだから、僕がいない時はちゃんと専門の人に指導してもらって服用するようにしてよネ」

念押しをしてから、彦名はごそごそと上着の内ポケットをまさぐった。そして、いくつかの茶色い粒を取り出して見せる。これが、桃仁という物なのだろう。

「さて……この桃仁なんだけどネ、普通、こんな大きな傷を負った時に服用するような鎮痛剤じゃない。けど、僕はこの傷にはこれが効くと思ったんだヨ。……何でだと思う?」

「え? ……うーん……」

腕組みをして考え始めた仁優に、彦名は数秒と待たず「はい、時間切れー!」と告げる。そして今度は、夜末の方に視線を向けた。

「どう? 朝来姐さんはわかる?」

「……破邪の力……なのか?」

彦名は人差し指を立て、「ピンポーン!」と楽しげに言った。

「これは中国でもそうなんだけどネ。桃には昔から、邪悪な物を退ける、破邪の力があるんだヨ。……瑛姐さんは、よく知ってるよネ?」

恐る恐ると言った風に尋ねる彦名に、瑛がムスリとした表情で頷いた。そこで、仁優は納得する。

そう言えば、古事記では黄泉から逃げ出した伊弉諾が、追ってきた伊弉冉を桃の実を投げて撃退する場面があった。

「だから、造化三神の混沌っつーか、闇っつーか……それを祓う事もできたってわけか」

「そういうコト! 実を言うと、今も包帯の下には桃の葉を湿布みたいに貼ってあったりするんだよネ」

ウミが、再び自らの胸に手を当てた。葉っぱを貼られている事に気付いていなかったのか。

「……けどさ、黄泉族に破邪の力を持つ桃って、使って良いのか? 伊弉冉と一緒に黄泉軍を追い払っちまうぐらいの力を持ってるんだし……回復どころか、更にダメージを与えそうなもんだけどな」

「んー……そこは賭けだったんだけどネ」

彦名はぽりぽりと頭を掻く。

「桃が祓ってくれるのは、あくまで邪悪な力だからかしら。黄泉族であっても、攻撃性や邪悪な思想が無ければ問題は無いみたいよ。伊弉冉が当時追い払われてしまったのは……」

「私が伊弉諾に対して、明確な殺意を持っていたから、だろうな」

言い難そうにする奈子の言葉に瑛が自ら続き、完結させる。そして、仁優とウミ、彦名を順に見た。

「闇化を防げた理由はもう良いだろう? 時間が惜しい。次の回答に移ってくれ」

ウミが頷き、口を開いた。

「何故裏切る事にしたか、だが。……瑛に再び出会えたからだ」

「惚気を聞いている余裕は時間的にも精神的にも、ここにいる誰もが持ち合わせていないからね、父上」

天が蝿でも追い払うかのように手をひらつかせながら言う。この一瞬で、かなり機嫌が悪くなったようだ。

「そういう意味で言ったわけではない。……瑛も睨むな」

溜息をつきながら、ウミは困ったような顔をして天と瑛を交互に見る。少し人間味が出てきたようだ。

「私が言ったのは、造化三神に対抗するための力を持つ者と出会えた、という意味だ。勿論、出会えたのが瑛――伊弉冉だったという事にも、喜びを感じたが」

結局惚気か、この野郎。……と言いかけたが、肩に回そうとした手を瑛に強かに叩かれているのを見て、言葉を呑み込んだ。

「伊弉冉であれば、私と比肩する力を持つ。それに、現在の伊弉冉の周囲には天照に八意思兼神、更に石長比売や猿のような神々の生まれ変わりも大勢いる。……それだけではない。妖禍使いや霊話者のような、いずれは地祇となるかもしれない者までも仲間に付けている。私に付いてくれる黄泉族と、伊弉冉とその仲間達……これらが力を合わせれば、造化三神を叩けると思ったのだ。だから、裏切った」

「けど、結果は失敗した。……原因は、こちらの戦闘力が、父上が思っているほど高くなかった事。父上から裏切りの話を持ち掛けられた瑛が、ボク達にしっかり話を通していなかった事。……そんなところかな?」

嫌味ともとれる天の分析に、ウミと瑛は二人揃って気まずそうに頷いた。その空気が続かないよう、仁優は慌てて口を開く。

「で、でさ。そもそも造化三神は、何で葦原中国を滅ぼそうとしてるんだ? 話を聞いてると、最初は黄泉国を……というか、伊弉冉を殺そうとしてただけだったんだろ? その理由もよくわかんねぇけど、何で……」

「最初に黄泉へ攻め入ったのは、瑛――伊弉冉が創り出したシステムを何とかするためだった」

ウミの回答に、仁優は首を傾げた。オロシとマドカ、礼も首を傾げている。黄泉族が半ば生者のようになっている事の良否はわからないが、転生する事の何がそんなに悪いのだろうか。

「黄泉族化する際に生者のような姿になるのは、そこまで問題では無い。だが、再び命を与えられた黄泉族は再び死ぬ事になった。更に、伊弉冉の創ったこの転生システムが働いていると、高天原が想定した以上のスピードで人間が増えていく。これが問題だった」

「? ウミ――伊弉諾はさ、伊弉冉と千引岩を挟んで話した時に言ったんだろ。一日に千五百の子を増やすって。これってつまり、伊弉諾は人間の数を増やしたがってるって事だろ? でもって、多分それが高天原の総意なんだと思う。なら、増えるのは良い事なんじゃねぇのか?」

伊弉冉が創り出した転生システムは、魂が宿らず本来なら流れるはずだった肉体に死んだ黄泉族の魂を宿らせるものだと言う。つまり、伊弉諾が増やした千五百人に更に数が加算される事になる。それ以外に、伊弉諾や転生システムが介入せずとも自然に産まれてくる子どももいただろう。人の数が増えれば、産まれてくる子どもの数も増える。

「増えるのが早過ぎたんだ。増える人の数が、あっという間に我々の手に負える数を超えた」

「我々が管理しうる数であれば、時には夢枕に立ち、時には怪異を見せて、我々の存在を信じさせる事ができました。ですが、人数が増えるとどうしてもそこまで手が回らない人間が増えてきます。そうすると、我々神の存在を信じる者は少なくなり、祀る者、祭、その他様々な物が失われていくのです」

「神様を信じる者がいなくなる事を、神様達は恐れた?」

仁優の言葉に、ライは「左様」と頷いた。

「神にとって、この世の全ては自らの子どものような物。始祖の代に近ければ近いほど、その気持ちは強くなります。そして……子に信じて貰えぬ、存在を否定されるという事は、親にとってとても悲しい事なのです」

ふと、仁優は瑛に視線を移した。その視線に気付かず、瑛は何か言いたげな顔で天の方を見ている。血は繋がっていなくても、やはり瑛から見れば天は我が子なのか。我が子であると思いたい天に信頼されず、嫌われ、悲しいのだろうか。

「そこで、造化三神はこの転生システムを止めるべく、伊弉冉様を討つ事としたのでございます。そして、黄泉族の反抗も考慮し、伊弉諾様を初め多くの天神を引き連れ、高天原軍を編成したのでございます」

「そして結果は、猿、お前も知っての通りだ。伊弉冉を討つ事には成功したが、私を初めとする多くの天神が黄泉族化し、加えて結局転生システムを止める事はできなかった。……いや、止める事ができなくなったと言うべきか」

「……どういう事だ?」

仁優が怪訝な顔をすると、伊弉諾は肩をすくめた。

「私と伊弉冉が死に、生と死を司る神の立場が入れ替わった事で、神の意思で人の数を増やす事ができなくなった。だが、不死ではない人間は伊弉冉が介入せずともいずれは死ぬ。だが、新たに産ませる事ができない。これでは、今度は人間の数が減り、いずれは死に絶えてしまうからな。こうなると、伊弉冉の遺した転生システムで埋め合わせる他は無かった……」

システムを止める為に黄泉国に攻め込んだ筈なのに、そのシステムに頼らざるを得なくなってしまった。おまけに、伊弉冉が黄泉族化した者が再び命を与えられるようにしていなければ、死んだウミ達はそれこそ以前の伊弉冉のように身体に蛆が湧き腐乱した姿になっていたわけで。本末転倒という言葉をどうしても思い出してしまう。

「それでも、急激な人の増加を抑える事はできた……だから、私やウミ様はそれでも良いかと思っていたのです。ですが……」

「造化三神が黄泉の空気に中り、危険な思想を持つようになったというわけだ」

ライの言葉を瑛が引き取る。そう言えば、裏切りの打ち合わせをしていた事からもわかるように、瑛は既に全てを知っていたのだ。

「守川には言ったが……黄泉の空気は、触れた者の心を壊してしまう。だから私は、黄泉族化した者が壊れてしまわぬように腐心したんだが……黄泉族化していない者が触れれば、やはり壊れてしまう。だから、生きている者が長時間黄泉国に留まるのは、危険なんだ」

「だが、我々はその事を知らなかった。そして知らないまま、あの時死ななかった造化三神は黄泉族の不安分子を鎮圧する為黄泉に留まった。……結果、心が壊れた」

そして、白く輝いていた造化三神は、混沌とした物体になってしまった。今では、日に日に闇のように黒く染まっているのだという。

「闇化した造化三神は、こう考えました。もはや、葦原中国の人々が神の存在を信じなくなる事は止められない。多くの天神が黄泉に落ちてしまった以上、修正は見込めない。ならばいっそ、葦原中国も高天原も、そして黄泉国も……全てを壊し、一から創り直してしまおうと」

「……!」

衝撃が、仁優を貫いた。

造化三神は、葦原中国だけを滅ぼそうとしているわけではない。天達天神が未だに住まう高天原も、ウミ達黄泉族が住まう黄泉国も、全てを滅ぼそうとしている。

「……全部滅ぼして、一から全部創り直して……人が増えても、神様を信じたままでいてくれる世界を創ろう……そういう事か?」

ウミも、ライも、そして瑛も頷いた。

「造化三神達から見たら、今のこの世界は上手く作れなかった試作品なのかもね。だから全部無かった事にして、今度は――次に創りだされる始祖の夫婦神も伊弉諾と伊弉冉と名付けられると仮定して――伊弉冉が黄泉に落ちても転生システムを創りだしたりしないように、予め手を打っておこうってところか……」

不服そうな顔で、天が言う。仁優は、バン! と机を叩いた。

「……ふざけんな! 思い通りにいかないから全部無かった事にする? そんなんアリかよ!? 困った時神様に助けてもらえなくても、神様の存在を信じられなくなっても……それでも、俺達は俺達なりに頑張って何とかやってきたのに、それを全否定なんてされてたまるか!」

「……」

「……」

その場にいる者達全員が黙り込み、顔を見合わせる。

「……方法は。何か方法は無いのか? 造化三神を浄化して、考えを改めさせるような、そんな……」

「……浄化?」

ウミが目を丸くして呟き、そして瑛と顔を見合わせた。瑛も、目を丸くしている。

「……猿。お前は今、造化三神を浄化する、と言ったか?」

「? ……おう」

仁優が首肯すると、ウミは突如笑いだした。

「な、何だよ。俺、何かおかしい事言ったか?」

「浄化……浄化か。なるほどな」

笑いを収めながら、ウミは一人頷いて見せる。

「その可能性を完全に忘れていたな。確かにそうだ。私達は造化三神を倒す事ばかり考えていたが……奴らの心に巣食った闇を浄化し、元に戻すという道もあるのだったな」

「そりゃ、ウミ達だって黄泉の空気に中てられてたのに、こうやって正気を取り戻す事ができたんだから……造化三神だって、正気を取り戻せる可能性はあるだろ。……けど、どうやったら良いんだろうな? 黄泉族化させるにしたって、結局は倒さなきゃいけねぇわけだし。それが簡単にできるような事じゃねぇってのは、さっきウミや瑛が戦った時の様子でもわかるしな……」

ふむ……とウミが唸った。それから、要の方へと視線を向ける。

「仁優はこう言っているが……天照の補佐役たる八意思兼神に、何か良い案はあるか?」

呼び名が「猿」から「仁優」に変わった。丸くなった仁優の目に、考え込む要の姿が映る。

「そうですね……やはり決め手となるのは、これではないかと思います」

そう言って、要は彦名の手から一粒の桃仁を摘み上げた。

「彦名さんが言うように、桃の破邪の力が黄泉の闇を祓う事ができるのであれば、造化三神の闇もまたこれで祓う事ができるのではないでしょうか? 伊弉諾様――ウミさんの傷も、闇化していた箇所まで桃の力で元に戻ったようですし」

「けど、それを実行しようと思ったらかなりの量の桃が必要ね。あんなサイズの闇と混沌の塊になっちゃってるんだもの」

「確かに。桃源郷並の量が要るかもしれないね」

奈子と天が腕を組んで唸り、真似するようにオロシとマドカ、礼も唸る。

「……量を集めるのが困難なら、質を高める事はできないか?」

静かな呟きに、一斉に全員の視線が神谷に注がれた。視線が鬱陶しいと言いたげに顔を顰め、神谷は言う。

「全ての桃が均一に力を持っているというわけでもないだろう。なら、滅多矢鱈に集めるなどという面倒な事をせずに、霊的力を多く持っていそうな桃を狙って集める事はできないか……?」

「例えば、いわゆるパワースポットに生えているような……それこそ桃源郷とか、西王母の庭で採れるような桃なら、数は少なくても効果を期待できる。……そう言いたいんだな、神谷?」

夜末に言われ、神谷は頷いた。

「そういう事なら……オロシ、マドカ」

夜末の呼び声に、オロシとマドカが「はいっ!」と反応した。

「お前達なら、人間が入れないような世界にも入れるな? ……勿論、桃源郷のような場所でも。今から急いでそういった場所を探して、桃を採ってきて欲しいんだよ。実でなくても良い。葉でも花でも、破邪の力が宿っているならどの部位でも構わないからね」

「はい!」

「わかりました!」

威勢良く返事をし、オロシとマドカは指令室から早足で出ていく。その後に、神谷が続いた。

「そういう場所に詳しい霊に道案内をさせる。闇雲に探すよりは面倒が少なくて済むだろうからな」

「こんな時でも、面倒という言葉を無理にでも使うんだな。面倒臭がりアピールを続けるのは勝手だが、くそ真面目で律義な性格が全く隠れていないよ。またストレスと過労で倒れられたりしたら、こちらの方が面倒だからね。伝」

「そうだな。言いだしっぺだからと言って結果を催促したりはしないから、気楽にやると良い」

夜末と瑛の幼馴染二人に言われ、神谷は気まずそうな顔をした。

「……その言葉、そっくりお前達二人に返してやる。朝来が地祇になれなくても、妖禍達が狩られる事が無いように俺も手を貸してやる。それに、騒ぎの原因だからと言って瑛が気負う必要も無い。お前達二人が暴走すると面倒どころの話では終わらなくなるからな。絶対に無茶はするな。良いな?」

一息で言い切ると、神谷は逃げるように走り去っていく。その後姿に夜末と瑛は苦笑し、ウミは何やら不満そうな顔をしている。……嫉妬か。伊弉冉――瑛が自分以外の男と親しく話しているのが気に入らないのか。大丈夫、神谷には大切な恋人がいるそうだから。……と言ってやりたいが、残念ながらそんな事を言えるような空気ではない。

やがて、自分で感情を整えたらしいウミは軽く咳払いをした。

「強い力を持つ桃だが……私にも一つ、心当たりがある。……意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)だ」

「……あぁ、アレか」

瑛が複雑そうな顔をして唸った。その顔に、天はピンときたようだ。

「あぁ、父上が瑛――伊弉冉を追い払うのに使い、名前を与えた桃の木か。確かに、あの桃なら黄泉族を追い払った実績もあるし、父上――伊弉諾尊から名前まで与えられて神となっている。……破邪の力は相当なものだろうね」

「全ての話が終わり次第、私とライは意富加牟豆美命を訪ねてみようと思う。私の事を信じきれないのであれば、誰かを監視役として付けてくれても構わないが」

「なら、その役目には私が就くよ。妖禍達と伝にばかり働かせるわけにはいかないからな」

名乗り出た夜末に、ウミとライは頷く。

「こうなると、残る問題は……」

「どうやって造化三神を、光のある世界――葦原中国に再び引き摺り出すか、ですか」

仁優の呟きを、要が引き取った。

ウミに深手を負わせた後、造化三神は再び黄泉国へと戻ってしまった。黄泉国で桃をぶつけてみたとして効果が無いとは言わないが、できる事なら陽の光が当たる場所で実行したい。陽の光にも、邪悪な力を打ち消す効果があるからだ。だからこそウミと瑛は、敵同士のフリをしてまで造化三神を葦原中国に来させようとしていた。

「こういう時は、相手の本拠地まで行って、相手を怒らせるのがオーソドックスなパターンなんだろうけどネ……」

彦名の言葉に、仁優は確かに、と思う。挑発行為を行い、怒った相手が挑発者に思い知らせてやろうと追いかけてくる。挑発者が自分に有利に働く場所まで逃げる事ができれば、作戦は半分以上成功だ。

「黄泉国で一暴れして、造化三神を怒らせてやれば良いんだな? なら、その役目は私が引き受けよう」

瑛が、一歩進み出た。

「……できるのかい? 黄泉国は、瑛が何千年も時を過ごした場所だ。そこを滅茶苦茶に破壊する事になる」

「……やるしかないだろう。放っておけば、どの道最後には破壊されるんだ」

「黄泉の空気に触れた者は、心が壊れるんだろう? 瑛がそうならないって保証はどこにあるのさ?」

噛み付き続ける天に、瑛は苦笑した。そして――ぎこちなくではあるが――ゆっくりと右手を上げると、そのままくしゃりと天の頭を撫でる。

「な……」

「壊されはしない。私は一度壊れたところから自力で這い上がったんだ。そして、黄泉族として数千年、あの空気の中にいて、耐性はついているし、引き際も知っている。……それに、黄泉族の侵攻によって葦原中国に流れ込む黄泉の空気を少しでも陽の光で中和しようと、安全な高天原を出て頑張っている娘がいるんだ。心を壊され、その頑張りを無下にする気は毛頭無い」

「……!」

天の目が丸く見開かれた。そして同時に、戸惑う顔をする。思いもよらぬ反応に、どう返すべきかわからないでいるのだろう。

「……あ、あのさ、瑛。俺も……一緒に行ったら駄目かな?」

一斉に、視線が仁優に集まった。

「……話を聞いていたのか? 黄泉の空気に触れた者は、例え造化三神であっても姿形も、人間関係も、信念も、心も……壊れてしまうんだぞ。ましてやお前は地祇で、今は人間だ。そんなお前が……」

「それを言ったら、瑛だって今は黄泉族じゃないし、人間じゃねぇか。これに関しては、俺と瑛で何か差が出るとは思えねぇけど?」

「さっきも言っただろう。私は一度壊れたところから自力で這い上がった! そして、黄泉族として数千年、あの空気の中にいたんだ。耐性はついているし、引き際も知っている!」

「自力で這い上がった……って事は、誰もが必ず壊れるってわけじゃねぇよな?」

「……!」

瑛の顔が引き攣った。……ひょっとしたら、呆れているのかもしれない。生まれ出た一瞬の隙に、仁優は気を抜く事無く言葉をねじ込み、畳み掛ける。

「瑛が引き際だと思ったところで俺も引くし、もし俺の心が壊れて暴走し始めたら、その場で殺されても構わない。とにかく、俺も黄泉に行きたい。……いや、行かなきゃいけないんだ。……頼む!」

手を合わせ、頭を下げる。願うというよりは、祈っているかのような様子で。

「……お前が急にそこまで言うようになったのは……天宇受売のためか?」

瑛の問いに、仁優はビクリと反応した。瑛と、そしてウミとが「なるほどな」と呟く。

「一応確認しておくが、前世で夫婦だったとは言え、今のお前と天宇受売は全くの赤の他人だ。お前に前世の記憶が無いのであれば、尚更な。だから、お前には天宇受売を気遣ったり、守ったりする必要や義理は無い。……そう言われても、黄泉へ行きたいか?」

仁優は、黙ったまま頷いた。

「そうか。……天宇受売は幸せだな。黄泉の奥に引き籠ろうとも、記憶を失おうとも、尚迎えに来てくれる夫がいるのだから」

「それを言ってくれるな、瑛。あの時はどうかしていた……と言っても言い訳にしかならないが、本当にどうかしていたんだ。姿が変わってしまったぐらいで、最愛の妻を見捨てるなど……」

少々情けない顔で、ウミが瑛に訴える。それを瑛が軽くいなそうとするが、間に礼が割り込んでくる。怯えながらもウミを睨むその顔は、母を守ろうと必死になっている。

「……か、母様はぼくが守るから……。だから、これ以上母様を傷付けるなら……例え父様が相手でも、ぼくは……」

「これは。参ったな」

苦笑しながら、ウミは目線を礼に合わせ、そしてその頭をくしゃりと撫でた。先ほど、瑛が天にしたのと同じように。

「あ……」

礼が目をぱちくりとさせ、思わず両手で己の頭を触る。思えば、礼はウミ――伊弉諾に頭を撫でられたのは初めてだ。産まれてすぐに、伊弉諾によって首を斬られた。そして、黄泉国でも伊弉諾によって首を斬られている。礼――火之迦具土神にとって、実父であるはずの伊弉諾の手は、己の首を落とすためのものでしかなかった。それが今、優しく自分の頭を撫でている。

「お前には、申し開きのしようも無いな、迦具土……いや、礼。伊弉冉を失って頭に血が上っていたとはいえ、実の子を憎み、手にかけるなど……。あの時の私は、黄泉の空気にも触れていなかったのに。……お前には、何の罪も無い……ただ、母の腹から産まれてきただけだったというのにな……」

「……」

礼の目が、困ったように泳ぐ。その視線を捉えて、瑛も礼に目線を合わせてしゃがみ込む。そして、やはり頭を撫でた。両親から頭を撫でられ、礼の瞳からやがて涙があふれ出してきた。

「……礼くんは礼くんなりに、気を張っていたんでしょうね……」

三人の様子を見守りながら、要が呟いた。仁優は頷き、同意を示した。

産まれてすぐに母を失い、父に殺され、黄泉国でも父に首を斬られ、母共々命を落として。生まれ変わった葦原中国では幼くして両親を失った。天に保護され、前世の母と再会できたかと思えば、母を初めとして大人達は皆ピリピリしている。そして、二度も己の事を殺した前世の父が、またも目の前に現れて。気が張り詰めないわけがない。

それが今、両親が和解し、二人揃って優しく頭を撫でてくれている。礼にとってそれは、数千年もの間望み続けてきた光景なのではないだろうか。

「これで……今が、皆が滅ぶか滅ばないかって時じゃなきゃもっと良かったんだけどな……」

ぽつりと、仁優は呟いた。すると、要に奈子や彦名、天に夜末までもが同意するように頷いて見せる。

「そういうわけだから、父上。悪いけど家族の団欒は全てが終わってからにしてくれないかな? 丸く収まったら、ボクはもう父上が瑛とイチャつこうが礼と遊園地に行こうが、何も言わないからさ」

「イチャ……おい、変な事を言うな、伊勢崎!」

「瑛も。黄泉に行くなら行くで、早く準備をしてくれよ? 待たされた上に見せ付けられる私達の身にもなってくれ」

天と夜末の二人から言われ、瑛の顔が真っ赤に染まる。何やら新鮮な光景だな、と思っていると、仁優にも声がかかった。

「仁優も、早く準備をした方が良い。早く天宇受売命……いや、メノの顔を見たいだろう? まさか生まれ変わって記憶が無くなっても、同じ相手に惚れるなんてね……驚くよ」

「なっ……なっ……なっ……」

返す言葉が見付からず、酸欠の金魚の如く口を開閉していると、天と夜末が声を揃えて仁優、瑛、ウミの三人に言った。

「早く動け」

その瞬間、三人は弾かれたように動き出す。そして、ウミに同行するライと夜末も。その様子をぽかんと見ていた礼に、天がゆっくりと近寄った。そして、瑛やウミを真似て礼の頭を撫でると、申し訳無さそうに苦笑して言う。

「折角父様と母様に構ってもらっていたのを邪魔して悪かったね。二人が帰ってくるまでは、ボクで我慢してもらえるかな……兄上?」

天の問いに、礼は一瞬きょとんとする。それから、嬉しそうにはにかむと「うん!」と元気良く頷いた。





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