葦原神祇譚
12
「……どうするか。このまま拳で戦うか、何か武器を変えてみるか……」
演習室の横。武器庫の中で、仁優は頭を抱えて座り込んだ。
先日の戦いで、仁優は一切役に立たなかった。……いや、瑛が殺されそうになった瞬間に飛び込んでウミを止めた事をカウントしても良いのなら、全く役に立たなかったわけではないが。それでも、戦闘で一切役に立たなかったのには変わりない。
「訓練を受けたと言っても、素人同然だからな。本当に戦闘に加わる気があるのなら、銃が適当だろう。同じ重さの物を振り回すだけなら、棒よりは剣の方が殺傷力は高いだろうな」
「うわっ!?」
突然背後から声をかけられ、仁優は思わず飛び上がった。息を整えると、背後の人物を確認する。
「瑛……」
「……夜末の様子はどうだ?」
「もうすっかり元気だよ。神谷と元気に言い合いしてるし、何かがあれば近くにオロシとマドカもいる。……気になるなら、見に行けば良いじゃねぇか。幼馴染なんだろ?」
「まぁな……」
いつもと違い煮え切らない様子の瑛に、仁優は首を傾げた。
「……瑛? 何か、あったのか?」
「……いや」
その一言で、仁優はそれ以上訊けなくなった。……正確に言えば、本当に訊けなくなったわけではない。「そんなわけねぇだろ」「様子が変だ」などと言ってしまえば、深く追求する事はできる。だが、先日天に言われた言葉が頭に引っ掛かっている。
「キミが巻き込まれる形で葦原師団に入ってから、まだ二週間。絶対的信頼を寄せる事ができるほどの関係は築けていないだろう? なら、まだ知らない方が良い」
……そう。絶対的な信頼は築けていないのだ。事情も知らないまま、相手の懐深くを探ろうとするのは気が引ける。
「お前の方こそ、何があったんだ? 随分悩んでいる様子だが」
自分の気遣いを粉砕されたばかりかズカズカと懐に踏み入られ、仁優はがくりと肩を落とした。
「……俺、そんなに悩んでいるように見えるか……?」
「特にそう見えるというわけではないが……気配がな。自分はどうするべきか、考えてもわからずもがいている気配だ」
「気配って……」
そう言えば、約二週間前、出会ったばかりの時も心を読まれたような事があった。今思えば、それも心と言うよりは気配を読まれたのだろう。
「気配で、何を考えているかまでわかるのかよ……。それとも、そこまでわかるのは天神の生まれ変わりだからか?」
「そうだと言えばそうだし、違うと言えば違うな。要は、気配から何を考えているかまで読むのは経験の積み重ねだ。人と触れ合った経験が多ければ、別に神でなくとも何となく察する事はできるだろう。私達天神は、転生前の記憶も持っている。見た目は二十歳やそこらでも、記憶だけで言えば何万歳だ。それだけの経験値があれば、気配から心情を察する事もできるようになる」
それに……と、瑛は言葉を付け足した。
「悩みの気配という物は、人間が持つ気配の中では最も多い。人間というものは、悩まずには生きられない生き物だからな。夕飯に何を食べるかという軽い物から、どう生きれば良いかという重い物まで、種類や重さは様々だが。だから、悩みの気配というのはわかり易いんだ。そして、今のお前からは、重い悩みの気配がする」
「……」
隠しても無駄か、と、仁優は呟いた。
「お察しの通り、悩んでるよ。俺はどうすれば良いのか……って。天や要は現役の神様で、いざという時には何か凄ぇ事ができそうだし、奈子と彦名はたくさんの人を癒す事ができる。夜末と神谷は色々便利な事ができるし、マドカ……は、まだわかんねぇけど、オロシは家事もできるし戦闘でも強い。瑛は色々知ってるし、戦いも強い。……じゃあ、俺は?」
息を吐き、呼吸を整える。頭の中がぐるぐるしている。一旦落ち着いて言葉を探さないと、勢いだけで暴言を吐きそうだ。
「俺は……しがない大学生で、本屋のアルバイトで。そんなに頭が良いわけでもねぇし、力も人並だし。戦闘は二週間訓練を受けたけど、見ての通り。地祇なもんだから、前世の記憶も無ぇ。家事も普通で、怪我に対しては応急手当ぐらいしかできねぇ。……中途半端なんだよ。突出した物が無くて、俺にできる事が思い付かなくて。けど、何かやらなきゃって気持ちだけはあるどころか、どんどん強くなってる気がして。……どうしたら良いか、わかんねぇんだよ」
「……成程な。それで、何とか戦闘で役に立てないかと武器を見繕っていたわけか」
「そういう事」
仁優の肯定に、瑛はふむ……と考える様子を見せた。
「別段問題は無いように思うが」
「……は?」
瑛の言葉に、仁優は顔をしかめた。自分は真剣に悩んでいるのに、問題は無い、では納得がいかない。
「癒すまではいかなくても、応急手当はできるんだろう? 男で人並に力があるなら、力仕事もできる。頭が良くないと言うが、こちらの言う事が伝わるのであればとりあえず支障は無い。家事だって、上手くはなくても自分の最低限の管理はできる。戦闘は確かにあの体たらくだが、自分の身を守る事はでき、少なくとも足手まといにはならずにいる。それで充分だ」
「……そうか?」
瑛は、頷いた。
「突出した物が無いとお前は言うがな、突出した物を持つ奴は、専門分野から離れると足手まといになる事すらある。例えば石動と薬師は、癒す事は出来るが力は無く、護身程度の戦闘もまともにできない。もしあの二人が戦闘に巻き込まれれば、足手まといになる事は必至だ」
あの二人だけじゃない、と、瑛は続ける。
「夜末は女だし、神谷はああ見えて病弱だ。二人とも腕力や体力に乏しく、もし携帯電話を破壊されたり妖禍と引き離されたりしたら、あっという間に足手まとい確実になる。オロシはあの性格だからな……夜末が負傷した時の様子からしても、誰かが傷付いた時に応急手当はロクにできない。……と言うか、実際オロオロしているばかりで何もできなかった」
そして、私も……と、瑛は呟く。
「戦闘ができると言っても、女の身。闇産能天滅能尊に良いようにあしらわれ、あのザマだ。決して突出しているわけではない。手先が器用とは言い難いから応急手当は手間取るし、家事も苦手だ。ただ経験を多く積んでいるというだけで、実を言うとお前とスペックは殆ど変わらない」
いや、髪の毛から新神を生み出したり、物の姿を変えたりできるだろう。そう仁優が言うと、瑛は困ったような顔をした。
「そう言われればそうなんだが……あれらも結局、建御雷之男神の雷に焼かれてしまった。奴らの前では、私もお前も、戦闘能力に関しては同程度なんだ。……わかるか?」
「……何となくは」
戦闘能力に関しては、黄泉族に勝てる力を持っているかどうかではない。圧倒的な力の差を前にして、生き延び、次の機会を狙えるか否かが問題なのだ。
「……けどさ。それでもやっぱり、天神と地祇、どっちの生まれ変わりなのかは結構大きいと思うんだけど。だって、天神は生まれ変わっても神様だけど、地祇は生まれ変わったら記憶が無くって、普通の人間と変わらねぇんだし」
「……守川。ひとつ確認しておくが……まさか私達の前世――古事記に登場する神々を、西洋の神と同じように万能などとは考えていないだろうな?」
「え? いや、まさか。だって…………あ」
言いながら、仁優は気付いた。瑛が頷く。
「そうだ。この国の神々は、兎角役割分担が細かく決まり、各分野で突出している。……つまり、専門分野外の事となると、下手をすれば人間以下の神までいる。……例えば、伊勢崎だ」
「天? ……あぁ、そう言えば。あいつ、この施設に籠りっきりで、外に出ようとしねぇよな。日本の最高神である天照大神の力なら、黄泉族もあっという間に倒せそうなもんなのに……」
「それだ」
「?」
仁優は、首を傾げた。それだと言われても、どれの事かわからない。
「伊勢崎は天照だ。この国の太陽を司っている。……つまり、まかり間違って伊勢崎が死ぬような事態になれば、太陽の光は永久に失われ、この国は常夜の国となる」
「なっ……!」
思わず、息を呑む。瑛は、「それに……」と言葉を続けた。
「太陽を司っていると言っても、伊勢崎自身が太陽のような熱や光を発する事ができるわけじゃない。強力な力を持っているわけでもない。伊勢崎――天照が最高神なのは何者をも滅ぼす強大な力を持っているからではなく、多くの生命が太陽の光を必要としているからだ。伊勢崎自身は戦う事に不向きなんだ。だから、大国主命の国譲りの際も、建御雷之男神を使者として使わしている。……あの子を戦闘に狩りだすわけにはいかないんだ」
「……あの子?」
仁優が首を傾げ、瑛はハッと口を噤んだ。
「……とにかく、そういうわけだ。伊勢崎を戦場に出すわけにはいかないし、伊勢崎が出ない以上、倉知の参戦も望めない。だから、ある意味では伊勢崎と倉知はただの人間よりも役に立たない……と言うよりも、下手をしたら最悪の事態を招きかねない存在になっている」
「じゃあ、何で葦原中国に? わざわざ危険な場所に来るよりも、高天原でジッとしてた方がよっぽど安全じゃねぇか……」
「……ひょっとしたら、伊勢崎が高天原にこもっている方が、葦原中国は危険かもしれない、という事だ」
瑛の言葉に、仁優は目を見開いた。
「……え? それって……」
「今は詳しく話したところで、混乱するだけだろう。お前が、ここの連中と親交を深め、今私達が置かれている立場を真に理解できたら、その時に教えてやる。……良いな?」
有無を言わさぬ表情で言われると、仁優としては頷くしかない。少々萎れてしまった仁優に、瑛は困ったように苦笑をした。
「……地祇よりも天神の方が有利だと言うがな……私はどちらも一長一短だと思うぞ。確かに天神は、お前の言うように前世の記憶があって状況を把握できているし、特殊な能力を持っている者も多い。だが……前世の記憶を持っていない地祇は、過去のしがらみに囚われる事が無い」
「……過去のしがらみ?」
「そうだ。過去のしがらみが無ければ、私と伊勢崎のように無駄に険悪になる事も無いし、石動や薬師、倉知のように私に変な気を使う事も無い。黄泉族と戦うにしても、相手の事を覚えていなければ、覚えているよりはずっと戦い易いだろうしな」
そう言う瑛の眼は、何やら複雑そうだ。ウミの顔が、一瞬だけ仁優の脳裏を過ぎった。次いで、ウミに付き従っていた二人の顔も。
「……けど。俺が覚えていない事で、俺の事を覚えてる奴を傷付けちまうかもしれないってのはな……メノは俺の事を覚えていた。俺が思い出せなくても、俺がメノが天宇受売命だって気付いたら、嬉しそうだった……それで、俺が苦しむところを見たくないって……」
「気になるのか? 前世の妻が傷付いていないかが……」
言われた瞬間、仁優は顔がボッと熱くなった。鏡が無いので自分ではわからないが、多分真っ赤になっている事だろう。その様子を見て、瑛はククッと楽しそうに笑った。
「まぁ、天宇受売からしてみれば、先立った夫が折角目の前に現れたのに自分の事を覚えていなくて態度が違えば確かに傷付くだろうし、それでもやはり苦しむ姿は見たくないと思うんだろうな」
「……驚いた。瑛って、そういう色恋沙汰には無縁そうに見えたけど……そういう乙女心? って言うのか? そういうのがわかるんだな……って、先立ったの? 俺?」
仁優の問いに、瑛は真面目な顔をして頷いた。
「漁の最中に貝に手を挟まれて海に沈み、溺死だそうだ」
「うわ、俺、カッコ悪……」
がっくりと肩を落として、仁優は落ち込んだ。そして、のろのろと首を上げつつ言う。
「……でも、そっか。そんな死に方してたら、別れも急だったろうし……俺、悲しませちゃったんだろうな、メノの事……」
「まぁ、悲しませてしまった事実は変わらないが、お前は記憶を失っていても天宇受売の事に気付いたし、奴を傷付けてしまったのではないかと今こうして気にかけている。なら、まだマシな方だ。……ところで、さっきさり気無く色恋沙汰に無縁そうだとか言ってくれたな?」
妙に低い声で言われ、仁優はビクリと固まった。
「いや、そのっ! ついポロっと言っちまったというか! ……あれ、てことは、瑛にも色恋沙汰の経験があるって事か!? しかも、何かついさっき俺の事をマシな方って……という事は、何か苦い経験をした事がある、とか……? それって、生まれ変わってからの話か? それとも、前世の? ……そういや、瑛の前世って何なんだ? 天――天照大神と仲が悪くて、おまけに色恋沙汰で苦い経験がある神様なんて古事記に出てきたか……?」
次第に輝き始めた仁優の目を白けた目で見詰めた後、瑛は蝿でも払うかのように仁優の頭を叩く。ペシッという結構良い音がした。
「いてっ!」
「調子に乗るな、猿! 私にだって色恋沙汰の経験ぐらいはあるし、それが前世の話か現世の話かお前に話す義理は無い!」
「……何だよー。色恋沙汰に縁が無さそうって言ったら必要以上に突っかかってきたのは瑛だろ!?」
抗議する仁優に、瑛は溜息をついた。そして、頭痛がするとでも言いたげに、こめかみを押さえる。
「……これは、前世から引き継いだ猿田彦の特性か? お前と話していると、どうしても気が緩み易い上に、余計な事を口走ってしまう……」
言われて、仁優は「そうか?」と首を傾げた。
「自分ではよくわかんねぇけど……そうだって言うなら。覚悟しとけよ。そのうち、俺が知らないでいる事、全部ポロっと喋らせてやるからさ」
「言うようになったな。なら、それまで死なないように頑張る事だ」
仁優が「あたぼうよ!」と答えるのと、緊急を報せるアラームが鳴り響いたのはほぼ同時だった。ハッとして顔を強張らせた二人のイヤホンマイクから、要の声が聞こえてくる。
『皆さん! また黄泉族が現れました!』
「何だって!? 場所は!?」
『サカシマヤビル周辺です。前回よりも人通りが多い……急がないと、大参事になりかねません!』
最後まで聞く事無く、仁優は飛び出した。結局、今回も剣や銃は持たないままだ。恐らく今回もロクに戦えず、生き残る事ができれば後から落ち込むのだろう。その様を想像し、微かに苦笑すると、瑛は左耳のイヤーカフに静かに触れた。
「また、あいつと戦うのか……」
『彼は黄泉族の主戦力ですからね。戦闘は恐らく……避けられないでしょう……』
暗い声音で呟く瑛に、要が答えた。こちらも暗い……瑛を気遣うような声音だ。その声に、一瞬ビクリと震えたかと思うと、瑛は黙ってイヤホンマイクを取り外した。
『瑛さん!?』
要の声は未だに聞こえてくるが、イヤホンマイクをつけ直そうとはしない。そして、そのマイクでは拾いようが無いほど小さな声を発した。
「……まずは、奴らを戦場に引き摺り出す事……。それまでは、戦うフリをする事。奴らが現れた時が、裏切りのタイミング……」
呪詛のように、その言葉を何度も繰り返して呟く。そして、幾度呟いたかわからぬほどその言葉を唱えると、瑛は顔を引き締めた。まるで、情と言う物を捨て去ろうとするかのように。
そして、瑛は何事も無かったかのようにイヤホンマイクを再装着した。
『瑛さん? どうしたんですか、いきなりマイクを外したりして……』
「済まない。唾が気管に入って、咽たんだ。流石に、あいつと戦うと考えると私も緊張するらしい」
わかり易過ぎる嘘に、要から「大丈夫ですか……?」と心配と疑惑が入り混じった声が返ってくる。次いで、天の声が聞こえてきた。
『あまり変な動きはしない方が身のためだよ、瑛。一応ボク達だって、キミのアキレス腱をいつでも切れる立ち位置にいるんだからね』
「……」
天の言葉に、瑛はしばし黙った。だが、やがて決意したように口を開くと、言う。
「……伊勢崎」
『何だい?』
「上手くいけば、この戦いを終わらせる事ができるかもしれないんだ。……暫くの間……少しの間で良いから、私の事を信じて欲しい」
『上手くいけば、ね……』
天の呟きを聞くと、それ以上の言葉は待たずに瑛は歩き出した。左手が、もう一度左耳のイヤーカフに触れる。その手は、胸元まで下げられると、ギュッと強く握り締められた。