桃源に酔う





 ことり、と小さな音を立て、男は盃を卓子に置いた。それと同時に、ふぅ、という微かなため息が零れる。

 夜の酒場は賑やかだ。人々が酒を飲み、温かい飯を食い、楽しそうに語らい、豪快に笑っている。

 そんな場だと言うのに、男は一人、暗い顔をして盃に酒を新たに注ぎ、ただちびちびと嘗めるように飲んでいる。

 男の目の前には、酒場の店主が作ってくれた野菜の油炒めや焼いた豚肉が並んでいるが……こちらも、時折思い出したように箸でつついて、ちまちまと口に運ぶのみ。

 口に運んでからがまた長く、一口を何十回と噛み続け、もういい加減口の中に残っていないだろうと思われた頃にゆっくりと飲み下す様子を見せている。

 そのため、折角の料理はとうに冷めてしまっているようだ。

 男の陰気な様子に、流石に客達も、店の者達も気付いたのだろう。時折男の方を指差しては、ひそひそと囁き合っている。店主に至っては、不機嫌そうな顔で腕を組み、男を睨み付けている。己の作った料理をこんなにもまずそうに食われては、やむなしと言ったところか。

 店主が怒りを発散するためか、肉切り包丁を研ぎ始めた。その様子に客達は恐れ戦き始めたが、だからと言って誰もこの男に「どうしたのか」「店主が怒っているからまずそうに食わない方が良い」などと話しかける事もしない。

 なにしろこの男、官服をその身に纏っている。役人ともなれば庶民にはわからぬ気苦労で機嫌が悪くなる事もあるだろうし、威厳を保つために明るく飯を食うなと言われる事とてあるだろう。……想像でしかないが。

 皆がひそひそと想像で囁き合い、男はそれを気にする様子も無く、ちびちびと酒と食事を進める。

 そんな時が、あとどれほど続くのだろうと皆が考え始めた時だ。

 一人の青年が、酒壺を持ってふらりと男の元へと歩み寄った。

「兄さん、辛気くさい顔をしてるねぇ。何かあったのかい?」

 飄々としたその態度に、客達や店の者は勿論、辛気くさいと言われた男も目を遣った。

「……別に、何も」

 そう男が呟けば、青年は「えぇー、本当にぃ?」などと軽い口調で返している。

「……何が言いたい?」

 ぶすりとしたまま男が問うと、青年は「だって」と言う。

「こんなに楽しいお店で、料理もお酒も美味しいのに、ちっとも美味しそうじゃないからねぇ。見たところ、兄さん、役人だろう? 着物は結構良い布地を使っているし、それなりの役職に就いていると見た。大衆酒場で食事をする必要もあんまり無さそうだし。なんか理由でもあるのかなぁと思ってね」

「無い。強いて言うなら、賑やかな場で食事をしたいと思ってこの店に入った。それだけだ」

「……それ、本気で言ってる……?」

 唖然とした様子で、青年が問うた。他の客達も同様だ。

 あれだけ辛気くさい顔で食事をしておきながら、賑やかな場で食事をしたいと思ったと言われて、誰が信じるだろうか。

 場が、静まりかえる。誰もが声を発しなくなったのを認めてから、男は再び食事を始めた。相変わらずちびちびと酒を嘗め、思い出したように料理を箸でつついては延々と噛み続けている。

 その様に、何故か青年が吹き出した。ぷっという声に、男は盃を口に運ぶ動きを止め、再び青年に目を遣る。

「……何だ」

「……いや。兄さん、面白いなと思ってね。……どうだい? 一献」

 そう言って、青年は手にしていた酒壺を掲げて見せた。随分と古い酒壺だが、ひび割れや欠けは一切無い。側面には、鮮やかな桃林の絵が描かれている。

「おい、兄ちゃん。自前の酒を勝手に持ち込むな。酒場に来たからには、酒場の酒を飲んでくれよ」

 困ったように店主が言うと、青年は「勿論」と返す。

「ちゃんと買わせてもらうよ! ただ、今はこの兄さんに、僕の特別な酒を飲んで貰いたくてね」

 そう言いながら、青年は腰を叩いた。腰には、手にしているのとは別の、小ぶりな酒壺が二つほどぶら下がっている。これを取り外して、青年は代金を店主に支払った。帰るまでに酒を詰めておいてくれ、という事なのだろう。

 酒を買ってくれるなら、と店主は渋々酒壺を受け取り、「人に勧めるのも少しだけにしてくれよ」と釘を刺す。

 青年は「わかってるよ」と苦笑しながら、再度男に向かって酒壺を掲げた。

「……改めて。兄さん、どうだい?」

 そう言って青年が突き出す酒壺からは、何とも言えない良い香りが漂ってくる。酒精と、ほのかな薬の香り。そして、桃の香りが何よりも濃く鼻孔をくすぐる。

 己の鼻を惹き付けて止まないその香りと、青年の屈託の無い笑顔に、男は思わず「あぁ」と頷いた。

 香りを嗅ぐ限り、それほど強い酒ではなさそうだ。それに、薬の香りもする事から、体に害のある酒ではないだろう。それに、己はたしかに役人だが、毒殺を懸念するほど高い地位に就いているわけでもない。飲んでも問題は無いだろう。

 頷いてから後付けでそう判断し、「ならば、一盃だけ」と、男は盃を干し、そして青年に向かって差し出した。

「そうこなくっちゃ」

 そう言って、青年は男の盃に、己の酒壺から酒をなみなみと注いだ。それを男は一口含み「ほう……」と目を見張る。

「これは……美味い」

「だろ?」

 そう言って青年が笑うと、それまで様子を見守っていた客達が、羨ましそうな顔をして青年に声をかける。

「なぁ、兄ちゃん。そんなに美味い酒なら、俺にも飲ませてくれないかい? 代わりに、一盃奢るからさ」

「おう。俺も飲んでみたいな。駄目かい?」

 その言葉に、青年は困ったように笑う。

「駄目だよ。この酒は、飲んで酔える人と、酔えない人がいるんだ。見たところ、あんた達はこの酒では酔えないお人だからねぇ」

 その言葉に、客達は顔を見合わせる。

「どういう事だ?」

「酔いそうかどうかなんて、見ただけでわかるのか?」

 客達が口々に言うのを制するように、青年は人差し指を口に当てた。顔は笑っているが、その挙止からは一切の音がしない。

 先ほどまでと、何やら雰囲気が違う。誰かが、恐る恐る問うた。

「……兄ちゃん? あんた、一体……?」

 その問いが終わるか終わらないかのうちに、ごとり、と音がする。見れば、青年から勧められた酒を飲んだ男が卓子に突っ伏し、深く眠り込んでいた。





  ◆





 濃い花の香りに包まれている。男が最初に感じたのは、それだった。

 目を開けば、辺り一面に桃の花が咲き乱れている。空は青く、風は暖かく穏やかだ。

「ここは……?」

 先ほどまでは、たしかに酒場で食事をしていたはずなのだが。あの青年に勧められた酒も、それほど強くは感じられなかった。酔い潰れるほど痛飲した記憶も無く、故に夢を見ているとも思えない。

 混乱する男の耳に、男を呼ぶ声が聞こえた。その声に、男はぎょっとする。

「父上!」

「あなた」

 それは、数ヶ月前に他界した、妻と子の声だった。

 流行病で、己には祈る事しかできず、何もできないまま二人を失った時の事を、今でも時々夢に見る。

 その、声が。もう二度と聞くことはできないのだと思っていた声が、聞こえてくる。

 男は、いても立ってもいられず、振り向いた。

 間違い無い。そこにいる。愛する妻が、子が、己を呼び、手を振っている。

 男は、駆け出した。駆けて、桃の林に飛び込み、見付けた我が子を、妻を、抱きしめた。

 会いたかったと、寂しかったと、はばからずに口にする。

 寂しくて寂しくて、歓迎されない大衆酒場へ食事に行ったりもした。賑やかな場で食事をすれば、きっとこの寂しさが紛れるだろうと考えたからだ。

 だが、寂しさが紛れる事は無かった。賑やかな場へ行っても気は晴れず、寧ろ寂しさが増すばかりだった。

 その寂しさが、妻子に会った途端に吹き飛んだ。それと同時に、ふわふわとした心地よい感覚が襲ってくる。

「あぁ、これは久々に……酔っているな……」

 男は、頬を火照らせながら呟いた。そして、何に酔っているのだろう、と首を傾げる。

 酔うほど飲んだつもりも、酔うほど強い酒を飲んだ覚えも無いのだが……。

 しばし考え、しかし答えは出ず。「まぁ、いいか」と呟いた。

 今はただ、再会する事ができた妻子との時を大切にしたい。そう結論付け、男は改めて、妻子に向き合った。それを後押しするかのように、彼らを包み込む桃花の香りが強くなる。

 ……あぁ、桃の香りにも酔いそうだな、と。男は夢見心地の中で、寸の間、考えた。





  ◆





「僕が一体何なのか? ……何だろうねぇ」

 そう言って、青年は口元だけで笑った。

「道士か、妖怪か。はたまた天の使いか。……どれだって良いじゃないか。すごいのは僕ではなく、この酒なのだから」

 そう言って、青年は酒壺を三度掲げて見せた。中から、ちゃぷんという液体が揺れる音が聞こえる。そして、その壺の側面には、新たな絵が増えていた。桃林の絵に、人影が増えている。そのうちの一人は、紛れもなく、今卓子に突っ伏して眠っている男だ。

「この酒壺の酒を飲めば、魂魄がこの桃源へと吸い寄せられる。桃源は理想郷だからね。吸い寄せられた魂魄の望むものが現れるんだよ。例えば……死者とか」

 青年の淡々とした言葉に、誰かがごくりと唾を飲み込んだ。

「理想郷と現の世と、どちらも楽しい。それか、現の方が楽しい。そういう者は、いずれ桃源に飽きて、魂魄が現に戻ってくる。だけど、現よりも桃源の方が良い、戻りたくないと思った魂魄は……」

 戻ってこないだろうねぇ。と、青年は言った。

「戻ってこられなくなったら……どうなるんだ?」

 誰かの問いに、青年は「うん」と頷いた。

「桃源に……幸せに酔った魂魄は、やがて桃源の花の香りにも酔うようになる。酔って、酔って、いつしか桃の香りの中に魂魄が溶けていって……」

 青年が、酒壺を揺らして見せた。中で、ちゃぷんという音がする。

「最後は、酒になる。それが、これだね」

 ちゃぷん、ちゃぷん、と酒が揺れる音が段々大きくなっていく。まるで、酒壺の中の酒の量が増えているかのような。

「そ、そんな事をして……どうするつもりなんだ?」

 震える声で、誰かが問うた。だが、青年からは「さぁ」という言葉が返ってくる。

「どうするつもりだと思う?」

 辺りが、シンと静まりかえる。それで話は終わったと認識したのか、青年は店主の元へ行き、預けていた酒壺を受け取ると、桃林の描かれた酒壺を肩に担ぐ。

「あっ、おい。あんた、どこに……」

 呼び止められ、青年は不思議そうに首を傾げた。

「どこって……お腹も膨れたし、自分が飲むための酒も買ったから、帰るんだよ? ……あぁ、大丈夫。この兄さんの魂魄が、今夜中に『現に戻りたい』と思いさえすれば、酒壺がどこにあっても元に戻れるからね。戻らなかった時の事が心配なら、屋敷の人を呼んであげなよ。誰か役人に頼んで探して貰えば、どこに住んでるのかぐらいはわかると思うよ」

 そう言って、青年は酒壺を担いだまま酒場を出て行ってしまった。

 その場にいた者達は困惑し合い、やがて数人が、この魂魄が抜けてしまった男の身元を特定するために、役人を探しに店を駆け出る。

 男の身元は存外に早く知れ、屋敷の者が迎えに来る。そしてその後、彼がこの酒場に現れる事は二度と無かった。

 果たして、この男の魂魄は無事に戻ってきたのか。

 それとも、桃源に酔い、酒となって、終ぞ戻ってこなかったのか。

 その結末は、誰も知らない。





(了)











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