贄ノ学ビ舎














39
















後からアダムが迫ってくる。奉理は、懸命に駆ける。

足が治っていて良かった。治っていなければ、とっくの昔に捕まり、潰されていた事だろう。治したのが、今追ってきているアダムだというのは皮肉な話だが。

元々は渡り廊下だったと思われるトンネルを潜って、幾度か角を曲がり。廊下を元来た道へ元来た道へと進んで行って。簀子と下駄箱が整然と並ぶ土間まで辿り着いた。

後を振り向く余裕は無い。廊下に置かれた物を蹴散らしながら、アダムがもの凄い勢いで追ってくる。その音が、どんどん大きくなりながら奉理の耳に響く。

「……っ!」

土間から、階段室へと駆け込む。土間から屋上へとまっすぐ続く、一風変わった階段棟。地上へ出るにはここを駆け上がるしかない。

駆けて駆けて、上って上って。階段は蛇腹状になっている。踊り場で、時々ターンして。また駆けて、駆けて。上って、上って。どれほどの時をそうしたか。

やがて、奉理の目に光が飛び込んできた。今までの電灯とはまったく違う。白く明るい、自然光だ。

アダムが階段を上っているのだろう。唸り声が狭い階段棟内で木霊し、奉理の背を脅かす。泣き出したくなるのを、吐きたくなるのを堪えながら、奉理は階段を一足飛びに駆け上がる。

階段が途切れた。扉の無い出入り口を駆け抜け、ペントハウスから外に出る。昼間の林が、視界に飛び込んできた。眩しい光に、目を細めた。

「あっ! 見付けたぞ、柳沼だ!」

知らぬ大人の声が聞こえた。奉理を探していた教師のうちの誰かだろう。……そうだ、奉理は生贄に選ばれ、逃げたため、教師達に追われていたのだった。だが、今は教師から逃げている場合ではない。むしろ……。

「先生っ! 逃げてくださいっ!!」

奉理の悲鳴にも似た叫びに、近付いてきた教師達は怪訝な顔をした。今まで逃げていたのは柳沼だろうに……と言いたげだ。

「何を言っているんだ、柳沼? 意味のわからない事を言って、お前のした事を煙に巻こうと思っても……」

「良いから、早くっ!!」

奉理が叫ぶのと、アダムがペントハウスを破壊しながら地上に出てくるのと。ほぼ、同時だった。

「なっ……!?」

教師達の顔が引きつる。奉理は、林の出口を指差した。

「逃げてっ!!」

弾かれたように、教師達は逃げ出した。生徒を置いて逃げるなど、普通の学校だったら批判の対象なのだろうが、この場合は仕方ないだろう。妙に冷静になった頭で、奉理はそう思った。自分よりも慌てている者を見て、頭が冷えたのかもしれない。

アダムは、逃げる教師達の後姿には興味を示さない。ただ、奉理だけを赤黒い目が見詰めている。

「……やっぱ、先生達よりも俺の方が憎いんだね……」

仕方ないとは思う。奉理が現れなければ、アダムを殺すか殺さないかという話は出なかった。知襲がそれに心を動かされる事は無かった。

言わば奉理はアダムにとって、嫁を惑わし、己の命を脅かす存在なのだ。知襲を取り込んだのも、これ以上奉理と接触させないため。教師達よりも誰よりも、真っ先に奉理を狙うのは道理だろう。

「けど、死にたくないのは、俺だって同じだよ……!」

呟き、アダムをひと睨みして。奉理は駆け出した。教師達を追うように、林の出口へと、一直線に。

「グゥオオォォォガアォォォァァォォォ!」

怒りで言葉を失ったアダムが、木々の合間を縫うように追ってくる。奉理は駆けた。ただ、ひたすら駆け続けた。体育館から走り続け、何階分もある階段を一気に駆け上り、足はもう限界だ。心臓も、破れそうに思う。それでも、駆ける。

アダムを、グラウンドまで連れて行く。見通しの効く場所へ。援軍が来るかどうかはわからない。だが、来た時のために。一刻でも早くアダムに銃の照準を合わせる事ができるように。障害物が何もない場所へ。

周りの景色から、木々が切れる。見慣れた場所へ出た。寮と学校を繋ぐ道だ。これを学校の方へ駆ける。

「柳沼!? おまっ……これ、一体……」

教師達に言われて、奉理を探していたのだろう。小野寺と静海が、驚いた顔で奉理を見ていた。

「小野寺、静海! 逃げろ! 早くっ!!」

思わず、足を止めて叫んだ。アダムが林を抜けて姿を現したのは、ほぼ同時だった。

「なっ……何だよ、こいつ……っ!?」

「何で……何で学園の敷地内に化け物がいるのよ!?」

「今こいつが狙ってるのは、俺だけだから! だから、早……っ!」

言い終わる前に、アダムの赤い触手が奉理の脇腹を貫いた。血が、辺りに飛び散る。

「しまっ……!」

「柳沼っ!!」

倒れそうになる奉理を支えようと、小野寺と静海が駆け寄ろうとする。だが、その前に奉理の体を、アダムのヘドロの体が捕らえた。胸から下を完全に取り込まれ、上部へと持ち上げられる。何とか腕を抜き出して脱出を試みるが、全く抜け出せる気配は無い。

「柳沼ぁっ!」

「逃げてよ、早く! 早く、援けを……!」

言葉の途中で、全身を強く締め付けられた。胸元で、パキンという音がする。次いで、胸の辺りが冷たくなった。

「あ……」

音と冷たさの正体に気付き、奉理は呆然とした。音の正体は、小瓶だ。胸ポケットに入れていた、最後の希望。アダム細胞破壊毒。締め付けられた衝撃で瓶が割れ、中の液体が漏れ出た。それを制服が吸い取り、胸に拡がっている。

奉理の顔が青ざめたのを、深刻なダメージを負ったものだと思ったのだろう。小野寺と静海の顔が引き攣った。

「柳沼!」

「待ってろ! すぐに助けてやるからな!」

励ますように叫び、二人は校舎の方へと走り行く。二人がすぐには危険な目に遭わない場所へ向かった事に、奉理は少しだけホッとする。だが、すぐに全身の痛みで顔をしかめた。

アダムは、継続的に奉理の全身を締め続けている。ゴキリ、という嫌な音が、全身から聞こえてくる。その度に、全身が悲鳴をあげる。感覚的に、恐らくまだ骨は折れていない。だが、それも時間の問題だろう。

「コロス……コノママ、シメコロス……!」

奉理を捕らえた事で、少しだけ理性を取り戻したか。アダムが喋った。だが、喋ったところで、奉理への殺意は変わらない。

「このままじゃ……!」

このままじゃ、確実に絞め殺される。脳裏を、走馬灯がちらつき始めた。あぁ、静海の介添人をやった時以来だな、と、奉理は妙に落ち着いた頭で思う。

「ウゥ……グゥオオォォォガアォォォァァ!?」

突如、アダムが吼えた。……いや、これは悲鳴、か? 突然の事に、奉理はしばし呆気にとられた。そして、何が起こったのかと、アダムの全身を首を巡らせて見る。

異変は、奉理の目の前で起こっていた。奉理を締め付けているアダムの体の一部が、白い煙を立てている。

「これ……何で……」

呆然と呟いてから、奉理は思い出した。確か、アダム細胞破壊毒は、皮膚から吸収される毒薬なのではなかったか?

遅行性なので時間はかかったが、奉理の胸に拡がった毒に触れた部分から、アダムの体は少しずつ破壊されている。

「けど、これじゃあ全身に回るまでどれだけかかるか……!」

細胞が破壊され始めていると言っても、奉理の体が未だ締め付けられている事に変わりは無い。このままでは、アダムの細胞が全て破壊されるのと、奉理が絞め殺されるの、どちらが先かという状態だ。せめて、もう一撃。何かダメージを与える事ができれば。

そこで奉理は、胸に当たる冷たい物に気が付いた。毒薬の冷たさではない。金属の冷たさだ。

「これは……」

その正体を思い出し、奉理は急いで首元に手を遣った。首には、ピンク色の紐。それを手繰ると、曇った鉛色の鍵が胸元から姿を現す。鎮開学園に入学する時、妹の紗希がくれた家の鍵。もう一度家に戻れるようにと、お守り代わりに渡された物だ。胸元にあったため、しっかりアダム細胞破壊毒に浸されている。滴が、奉理の目の前で一滴、ぽたりと落ちた。

「これなら……!」

鍵を逆手に握り、奉理は振り上げる。狙うのは、アダムの体ではない。体の大きな敵を狙うのであればここだと、古来より多くの娯楽小説や漫画が教えてくれている。

「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」

渾身の力で叫びながら、奉理は鍵を握った腕を振り下ろす。鍵は破壊されかけていた細胞を容易く切り裂き、そして、赤黒い目に突き刺さった。

「グゥオオォォォガアォォォァァッ!?」

空をも裂かんばかりの叫び声を発し、アダムの全身が震える。奉理は宙へと放り出され、地面に強かに体を打ち付けた。

「……っつーっ……」

強打した左腕を抑えながら、奉理は立ち上がる。目の前では、アダムが赤黒い目に鍵を突き刺されたまま、もがいていた。もがいて、もがいて。そしてやがて、動かなくなった。

「やっ……た?」

呆然と呟き、奉理はアダムに近寄る。まだ、ぴくりぴくりと痙攣してはいるが、もはや自らの意思で動く事はできないように思える。

「……知襲は……?」

アダムに取り込まれた、知襲の姿を探す。ずるりと、アダムの死体の一部が動いた事に奉理は気付いた。

「知襲!?」

動いた部分へ。奉理は、捻った足を引き摺りながら近寄った。そこには、まるで今までの騒動が嘘であったかのように。静かに眠る知襲の姿があった。口元に手を遣れば、まだ息はある。

三十年前に生贄に捧げられ、そして今生還した少女の体を、奉理は優しく抱き締めた。

抱き締めて、そして泣いた。今までの恐怖と不安を、全て吐き出すように。駆け付けた人々の目も気にせず、大きな声で。












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