贄ノ学ビ舎













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「……信念?」

「えぇ」

頷く所作も、再びしゃがみ込む姿も。白羽の動作は、一つ一つが丁寧だ。経営する学校で、マナーや礼儀作法に力を入れていたという話にも説得力がある。

「人は等しく、礼儀正しくあるべきです。相手を敬い、無礼が無ければ、要らぬ争いは避けられます。そして、常に姿形、言葉遣いを美しく保とうとする姿勢は、心に落ち着きを与え、冷静な判断力を守ってくれるのです」

それは、奉理にも何となくわかる。あの時……林の中で無様に泣きじゃくっていた時。無様な姿は晒すまいと堪える事ができたなら、きっと知襲が現れなくても、独りで冷静になれた。

「ですが……昨今の……いえ、数十年前から、人々の礼儀というものは実に嘆かわしい物となってしまっています」

白羽の顔が曇る。奉理は、空気が更に冷えたように感じた。

「子どもは大人を敬わず、大人は他人を敬わず、人々は国を想わない。このような事で、どうして国が保てるでしょう? 国が保てなければ、どうして人々は平穏に暮らしていけるでしょう?」

そんな事を言われても、奉理にはどう答えれば良いのかわからない。今まで、そんな事は考えた事も無い。

「こうなってしまっては、もはや道徳の授業や、家庭の躾のみでどうこうなる話ではありません。だとすれば、あとはもう……恐怖という名の力に頼る他は無い……私は、そう考えました」

空気の冷えは、次第に増していく。奉理は耐え切れなくなり、両の腕で自らの肩を抱いた。

「だから、研究したのですよ。何者にも負けず、人々に恐れを抱かせるに足る存在。それを、この世に生み落とす方法を」

脳が痺れた。全ての感覚が麻痺し、体から動きを奪っていくような気がする。

「結構な時を費やしましたがね。それでも、国から秘密裏に援助があった事もあり、最終的には完成させる事ができました。強い力を持ち、人の言葉を解し、食物として人を好む。私達の理想を実現する一助となる生物をね。……おや、どうしましたか? 顔色が先ほどよりも優れぬようですが。私はそんなにおかしな事を申しましたかね?」

奉理は、自分の顔が引き攣っている事がわかった。目も、見開かれていると思う。国からの援助? じゃあ、あの多くの人々を不安に突き落とし、悲しませている生贄の儀は、国が推奨して行っている事だというのか? あの化け物も、白羽理事長と国が結託して生み出した?

「人の質が落ちれば、国の質も落ちます。当時の政府は、ある程度の犠牲を払ってでも、人の質を上げたかったのでしょう。……もっとも、あれから三十年が経ち、当時の事を知る政界の人間は大分少なくなりましたが」

「……何で……。何で化け物を作り出す事が、人を礼儀正しくする事になるんですか……?」

声が、掠れる。言葉になっているかどうかも怪しい問いだったが、白羽にはちゃんと聞こえたらしい。顔が、どことなく誇らしげだ。

「人を敬わず、好き勝手に生きる者は有事の際、いの一番に生贄にされてしまう。そんなシステムが確立されれば、形だけでも礼儀正しくしようとする者が増える。そう、思いませんか? 初めのうちは形式上だけだったとしても、やがて習い性となり、多くの人々は自然と襟を正し、人を敬って生きる術を身に付けるようになります。そして、いずれこの国は、地球上で最も礼儀正しく、誇り高い人々が住まう国となる。それが、私達の狙いなのですよ」

「けど……鎮開学園の生徒は……そんなんじゃない。強制推薦で選ばれるのは、みんな……」

「……そうですね……」

白羽は、フッと悲しそうな顔をした。

「今、鎮開学園に在籍している生徒達は……本来ならば、生贄には選ばれない側の善良な人間ばかりです。真面目で争いを避け、和を尊ぶ。私達も、できれば君達のような生徒を生贄に出したくはありません。ですが……」

いきなり本命の層を生贄に選んだら、暴動が起きるでしょう? そう、白羽は事も無げに言った。

「得てして、礼儀を持たぬ者は想像以上の行動力を発揮する事があるのですよ。生贄という前時代的な話に突然巻き込めば、どうなる事か……。ですから、まずは少しずつ、世間に生贄の必要性を浸透させていく必要がありました」

そして、誰もが生贄の儀を当たり前の物として受け入れるようになった時。鎮開学園強制推薦枠の条件を緩和する予定なのだという。

容姿が並以上で成績は可も無く不可も無く、性質は問題が無く温厚。この条件から、性質に問題が無い……という項目を除く。

こうなれば。容姿と成績が同程度であれば、選ぶ側の教師は迷わず手を煩わされている方の生徒を選ぶだろう。鎮開学園に入学してから問題を起こした生徒は、即座に生贄にしてしまえば良い。

生贄にされたくなければ、どれだけ不満があろうとも、学園内で大人しくしている事だ。生贄が世間で当たり前の物となってしまえば、不満分子を助けてくれる者はいなくなるだろう。脱走しても通報され、それどころか家族全員が世間から白い眼で見られる事となる。

「そうして、少しずつ条件の下限を緩めていき……逆に、上限は厳しくするようにします。そして最後は、世間的に好ましくない者だけが鎮開学園に入り、生贄として散っていく事となる。今は、その状態になるための過渡期なのですよ……」

奉理が生まれるのが、あと十年遅ければ。中学で全く同じ人員であったとしても、奉理が強制推薦枠に選ばれる事は無かったのかもしれない。

言葉を失くし、奉理はただ茫然と、白羽を見詰める。白羽自身は、その視線をどう受け止めているのか……。

「さぁ、これで話はおしまいですよ。そろそろ学園に戻ります。先生方も、生徒達も、君が逃亡した事で不安を募らせているでしょうしね。……立ってください、柳沼くん」

促され、奉理は素直に……しかしノロノロと、立ち上がろうとした。だが、立てない。どうやら、腰が抜けてしまっている。足も震えている。腕に力が入らない。

全身が、立って鎮開学園に戻る事を拒否している。

「……どうしましたか?」

「……立て、ません……」

ガクガクする口で何とか言うと、白羽はふぅ、とため息を吐く。ため息を吐く姿までも品が良い。

「仕方がありませんね。戻れば、君は生贄にされるのを待つばかりとなるのですから。しかし、だからと言ってこれ以上待つ事はできません。アダムに生贄を与えた事で、賽は投げられたのです。生贄の儀を無くす事は、今や不可能となりました。君が生贄にならなければ、代わりに誰かが生贄になるのですよ。結局、誰かが犠牲にならなければいけないのですから。君は、それでも良いのですか? 柳沼くん」

覚えのある言葉に、奉理は身体をビクリと震わせた。自分が生贄にならなければ、代わりに誰かが犠牲になる。中学三年生の時、強制推薦枠に選ばれるかもしれないとなった時に。奉理の周りで囁かれていた言葉だ。

結局は誰かが犠牲になる。自分がそれを受け入れれば、他の誰かを死なせずに済む。その言葉に奉理は精神を苛まれ、三年生の終わりにはすっかり憔悴していた。

思い出し、呼吸が速く、荒くなる。口が渇き、目に涙が溜まる。駄目だ、これ以上逃げる事は、奉理にはできない。

観念するしかない。そう思った途端、腕に力が入るようになった。抜けていた腰が、何事も無かったかのように戻っている。足はまだ微かに震えていたが、それも立ち上がるのを妨げるほどではない。

奉理は立ち上がった。白羽は満足そうに頷き、懐からペンライトを取り出す。小さな光で、足元を照らした。地雷のように仕掛けられた、複数のトラバサミが見える。今度は踏まぬように歩け、という事らしい。奉理を先に歩かせるのは、再びこの地下校舎内に逃げ込まれるのを防ぐためか。

またトラバサミを踏んだりしないよう足元に気を付けながら、傷付いて痛む足を引き摺りつつ奉理は階段へと向かう。この足であの階段を地上まで上るのかと思うと、今までとは違う意味で気が滅入りそうだ。

重い足と重い気持ちを引き摺って、奉理は何とか土間を通り抜ける。そこで一旦立ち止まって呼吸を整え、背後の白羽をちらりと見た。目が、「早く行け」と言っている。

抵抗は、無意味だ。奉理は諦め、地上へと続く階へと踏み出そうとした。

「待ってください!」










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