守りの鏡











風呂から上がり、唯は洗面台に向かった。スキンケアのために化粧水の瓶を手に取り、念入りに肌へと浸透させていく。

肌の具合をもっとよく確認しようと顔を今までよりも鏡に近付けて。そこで、唯は微かな違和感を持った。

鏡に映る風景が、どこか、いつもと違うような気がする。どこだ? 窓にも、扉にも、変わった様子は無い。

五分ほど考えて、やっと唯は気付いた。丁度唯の真後ろにあたる壁。唯より頭一つ分高い場所に、大きめのシミができてしまっている。

「やだ、いつの間にできたの? こんなシミ……」

顔をしかめて、とりあえず湿らせたティッシュで拭ってみようと振り返る。しかし、鏡を通さずにみたそこには、シミなど見当たらない。

「……見間違い? ……ま、いっか」

楽観的にそう呟いて。唯は用済みになったティッシュをゴミ箱に捨て、洗面所を後にした。





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翌日の夜。洗面台に向かった唯は、眉をひそめた。

昨夜のシミが、大きくなっている。やや濃い部分があり、まるで人の顔のようなシミだ。

「何これ、気持ち悪い……」

呟き、振り返る。だが、今日もそこに、シミは無い。あるのは、真っ白な壁だけだ。

「見間違い……きっと見間違いよね、うん……!」

そう、自分に言い聞かせて。唯はそそくさと、洗面所から出て行った。





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翌晩。洗面台に向かった唯は、小さく悲鳴をあげた。鏡に向かう己の背後に、はっきりとした人の顔が見える。男の顔のように見えるそれは、例のシミがあった場所に浮かんでいる。

振り向くが、やはりそこには白い壁があるだけで。しかし、再び鏡を覗いてみれば、やはりそこには顔がある。

唯は、思わず洗面所から駆け出した。残された壁はただただ、白く。鏡の中の壁もまた、白かった。





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その翌日も。更にその翌晩も。その次の日も。唯が鏡を覗くと、必ずそこには男の顔が映っていた。

鏡を見なければ良い。そうも思った。だが、花の女子大生に、朝晩の鏡は欠かす事ができず。極力鏡に映った背後を見ないようにしながら、唯は毎日鏡を覗き続けた。

しかし、懸命の努力も空しく、男の顔に見えるシミは、毎日唯の視界に飛び込んできた。それもそのはずで、シミは、毎日少しずつ移動していた。それも、横ではなく、前に。壁に浮かび上がっているはずのシミが3Dのように浮き上がり、日に日に唯に近付いている。振り向いても、勿論そこには、何も無い。ただ、白い壁があるだけだ。

「何よ……何なのよ、これ……!」

涙ながらに声を絞り出し、唯は鏡の右下に目を遣った。そこには白のポスターカラーで、小さな丸が描かれていた。





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「へぇ、これが例の、霊的瑕疵有り、って書かれてた部屋ね」

大学の友人、美咲がこの部屋に遊びに来たのは、いつの事だったか。多分、入学して間もない頃だったと思う。

昔、何か事件があったのか、「霊的瑕疵有り」という条件付きだったこの部屋は、しかしとても綺麗で、唯の好みにベストマッチしていた。おまけに、「霊的瑕疵有り」のお陰で家賃も安い。

特に霊感があるわけでもない唯は、少々迷いながらも、花の女子大生が一人暮らしをする住居として、この部屋を選んだ。

そして、大学で花村美咲と出会う。彼女には霊感があり、しかもお祓いや退魔の術も若干心得ているという話を聞き、唯は美咲に、部屋を見せる気になった。

「今のところ、特に何かあるってわけじゃ無さそうだね」

「うん。住み始めて一ヶ月経つけど、金縛りもラップ音もポルターガイスト現象も、一度も経験した事なんか無いわ。けど、やっぱりあんな事書かれてたら気になるし……」

「なるほどねぇ……」

そう呟いて頷くと、美咲は鞄から、白いポスターカラーのペンを取り出した。そして、美咲に洗面所の場所を訊くと、躊躇わずに入っていく。

そして彼女は、洗面台の鏡の右下隅に、ポスターカラーで小さく丸を描いた。描きながら、何やらむにゃむにゃと唱えていたようにも思う。

「?」

首を傾げる唯に、美咲は「魔除け」と言って笑った。

「昔から、丸い鏡には魔除けの効果があるって言われているんだよ。けど、この鏡は四角いから、ここにこうして、丸を描いて……気休めかもしれないけど、ね?」

「ありがと」

そう言って、二人は笑い合った。





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「何よ、これ……全然効果なんか無いじゃない……!」

震えながら、唯は鏡に描かれた丸を睨み付けた。そうしたところで、鏡の中の男の顔が消えるわけでもない。

苛立ちながら顔を上げ、唯はギョッとした。

男の顔が、更に近付いている。唯のすぐ後。有りもしない手を伸ばせば、唯の肩を叩けそうな程近くまで。

「……っ!」

悲鳴を押し殺し、唯は近くにあった雑巾を手にした。水で湿らせ、半狂乱で鏡に描かれた丸を擦る。

「役立たず、役立たず、役立たず……っ!」

ごしごしと、力強く鏡を擦る。肘が周りの物にぶつかり、化粧水の瓶が床に落ちる。ガチャン、バタン、という派手な音をたてながら、唯は鏡を擦り続けた。

そうして、十分も経っただろうか。鏡に描かれた丸は消え、それを眺めながら、唯は呆然としていた。

「……何やってるんだろう、私……」

こんな事をしたって、問題は解決しないだろうに。

「美咲……もう一度美咲に相談しよう。それで、場合によっては引っ越しも……!」

呟きながら顔を上げ。そして、鏡に映った背後が目に入って。唯は、顔を引き攣らせた。

男の顔が、すぐ真後ろにある。今までと違い、シミのような色ではない。やや黒っぽいが、肌色が見える。口も、赤い。白目と黒目が、はっきりと判別できる。

「引っ越しなんて駄目だよ。会えなくなっちゃうじゃないか……」

耳元で顔は囁く。うなじに、ハッハッという荒く熱い呼吸がかかる。唯は、ゆっくりと、振り向いた。

そこには、男がいた。シミではない、胴体がある。生きた人間が、そこに、いた。





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「何で、相談してくれなかったのかな、唯……」

テレビでニュースを観ながら、美咲は悔しそうに呟いた。

ニュースは、この近くで起きたストーカー殺人事件を報道している。被害者の名前は、筑紫唯。美咲の、友人だ。

霊的瑕疵有りの部屋に住んでいるという事で、一度相談を受けた事がある。その時美咲は、彼女の部屋にある仕掛けを施した。

鏡に描いた、白い丸。故意に作り出した、魔除けの力を持つ丸い鏡。

「何か異変が迫っていれば、あの鏡が何らかの形で教えてくれたはずなんだけど……。鏡なら毎日見る物だから、気付けたはずなのに。何も見えなかったのかな、唯……」

呟いたところで、今更何がどうなるわけでもない。悔しそうにため息を吐いてテレビを消し。美咲は、友人の葬式へ参列するために立ち上がった。









(了)





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