平安の夢の迷い姫











33











あの日の事は、まるで昨日の事のように思い出せる。

いつものように、考え事が過ぎて多くの奇妙な物を現にしてしまって。それらは庭で大いに騒ぎ始めて、雑色も端女も、たくさんの家人達が庭中を駆け回るはめになってしまって。

そんな中、一匹の犬が邸の外に逃げ出してしまって、血の気が引いた。

己のせいで、たくさんの家人達に要らぬ苦労をかけてしまっている。己のせいで、己が現にした犬のせいで、京が大騒ぎになってしまったらどうしよう。おかしな物を出して京を混乱させた罪で、父が官位を剥奪されたりしたら、どうしよう。

泣き出したかった。しかし、泣いたところで何も変わらない。変わらないどころか、家人達を更に困らせてしまう。本当に泣きたいのはきっと、彼らの方だろうに。

邸の外に犬を捕まえに行った雑色と端女は、意外にもかなり早く戻ってきた。後に、見慣れぬ人物を連れている。直衣を着て、冠を被っている、少し怖そうな男性だった。まだ若い。

陰陽寮の学生だと紹介されたその若者に、思い切って近寄ってみると……意外にも、緊張している気配が伝わってきたのを今でも覚えている。

その時に、思ったのだ。

「この人は、それほど怖い人ではないのかもしれない」

だから、しばらくの間、そばで様子を見てみようという気になった。すると、彼は己に問うたのだ。消したくないと思っている物はあるのか、と。

今なら、完全な厚意でそう問うてくれたわけではない事はわかる。だが、その時はたしかに、とても嬉しく感じたのだ。

今までやって来た陰陽師達は皆、加夜の事を「厄介な力を持って生まれてしまった、良家の姫」としか扱ってくれなかった。腫物を扱うようで、話し方も余所余所しく、そんな彼らに頻繁に来てもらい調伏してもらうのは、申し訳無さと怖さで押し潰されそうだった。

この人は、己の事を一人の女童として、目線を合わせて話してくれる。そう思っただけで、この若い陰陽学生の事が大好きになってしまった。

だからこそ、いつになく勇んで、不破に頼み込んだ。今後は、彼に調伏をしにきて欲しいと。

そしてその望みは叶えられ、何か起これば隆善は駆け付けてくれるようになった。

やがて、調伏してもらうだけでは悪いから、と邸に上げて、共に菓子を楽しむようになり。菓子はやがて酒へと変わり、何かを現にしてしまうような事が無くとも、共に過ごす時が増えるようになった。

文を寄越した貴公子がいれば、会ってはみた。だが、誰も彼も、隆善と共にいる時のような喜びを感じさせてくれる事は無かった。それどころか、加夜の力で現と化した物を見ると、怯えて即座に逃げ出してしまう。そんな事が続いて、増々隆善の事が愛しく思えるようになった。

周りが己と隆善の仲を認め、隆善が通ってくると嬉しそうな顔をするようになったのはいつ頃からであっただろう。

いつかは隆善と夫婦になるのだろうと、はっきりと約束を交わしたわけでもないのに信じるようになったのは、いつ頃からであっただろう。

本当に彼は、己の事を想ってくれているのだろうかと、不安に感じるようになったのは、いつ頃からであっただろう……?

不安を打ち払うために、あれこれと考えてしまい、以前にも増して様々な物を現にするようになってしまった。……いや、隆善に来てほしくて、わざと考えてしまったのかもしれない。今となっては、真偽のほどはわからないが。

幼馴染であるという惟幸を紹介され、弟子の葵とも出会って。どんどん今まで知らなかった隆善の一面を知れるようになった。

知らなかった面を知る事で、彼の存在がより近くなったように思えた。だから、もっともっと知りたくて、彼の邸を訪ねた。

そして、邸で見た物によって……彼の存在は、一気に遠い物と化してしまった。

不安は一気に増幅し、その不安を打ち払うために、加夜は必死に考えた。嫌な事を考える暇を頭に与えぬように、楽しい事を。面白い事を。現には有り得ない物を。

考えれば考えるほど、おかしな物が現になっていく。京がおかしくなっていく。

もはやこれでは、この京が現なのか夢に見ている光景なのかすらわからぬ。夢と現が、完全に混同してしまっている。

しかし、と加夜は思った。これが夢なのであれば、その方が良い。そうなら、先に隆善の邸で見た物――二人の歳若き女性も、きっと偽物なのだから。

そうだ、夢だ。これは夢なのだ。夢に決まっている。

意識はやがて朦朧とし、いつしか加夜は眠りについた。本当の夢の中へと入り込んだのだ。

そして、夢の中は相変わらず静かで、ふわふわとしていて綿の原にいるようで、昼間のように明るくて、現実味が無かった。

その現実味の無さと静けさが、加夜に冷静さを半ば取り戻させた。そして、今いる場所が夢の中であり、先ほどまでの光景は現なのであると、はっきりと思い知らせてしまった。

思い知らされ、冷えた頭が次第にこれまでの事をはっきりと理解し始める。何が起こったのか、どのような経緯でこうなったのか、何故こうなったのか。

加夜は全て、理解した。

目覚めたくない。真っ先に頭に浮かんだ言葉は、それだった。

現に戻りたくない。辛い現を目の当たりにしたくない。京をあんなにしてしまって、隆善に合わせる顔が無い。

「いっそ、このままずっと……この何も無い夢の世で……」

「いや、それは陰陽の術を扱う者としても、瓢谷たかよしの友人としても止めて欲しいかな」

突如湧いて出た声に、加夜ははっと顔を上げた。そう言えば、彼だけはこの場所に来る事ができたのだったな、と苦笑する。

「まだお昼なのに……。お昼寝でもなさっていたの、惟幸様?」

加夜の問いに、惟幸は「まぁね」と笑う。

「このままじゃ、たかよしと加夜姫様の行く末が気になって、夜も眠れないからね。……夜眠れないなら、昼に寝るしかないじゃない?」

「まぁ……お方様が聞いたら、何て仰るかしら?」

「妻は、常日頃から僕が昼寝をする事を推奨しているよ。鬼に眠りを邪魔される事が多い生活をしているからね」

そう言ってから、惟幸はすっと顔を引き締めた。真面目な顔をして、頭を下げる。

「こっ……惟幸様? どうなさったの?」

慌てる加夜に、惟幸は「ごめん」とはっきりした声で言った。

「たかよしの邸で女性を見て、きっと加夜姫様……不安が増したよね。たかよし、女の弟子もいるって事、言ってなかったみたいだし……」

「女の……お弟子様……?」

加夜の目が丸く見開かれる。惟幸は、真面目な顔のまま頷いた。

「元はと言えば、僕のせいなんだ。僕が、たかよしに娘を預けたりしなければ……」

「娘……?」

目が、増々丸くなる。惟幸の顔が、少しだけ緩んだ。

「僕と妻の間には娘が一人いてね。一緒に暮らせれば良いんだけど……頻繁に鬼に狙われるような場所で、妻と娘、二人ともを守りきる自信は流石に無かった。だから、たかよしに弟子として預けたんだよ。自分で身を守れるようになってくれれば、僕に何かあっても安心だし」

そう言ってから、苦笑した。

「それに……やっぱり娘には、京で貴族としての教養や立ち振る舞いを身に付けさせたかったんだ。僕は貴族の地位を捨ててしまったけど……将来、娘がどうなりたいかはわからない。あの子が貴族の姫として暮らしたいと思うのであれば、捨てた実家に頭を下げて、娘を引き取ってもらう事だって考えてる。そうなった時の事を考えたら、教養とかは身に付けておいた方が良いからね」

そう言えば、随分と挙止が綺麗な女性が一人いたように思う。

「たかよしがまさか、邸に女性が住んでいる事を言っていないとは思わなかった。加夜姫様に余計な不安を抱かせないためだったんだろうけど……。おまけに、一人女性が住んでいると、他の女性も住みやすくなるのか、女性の姿を取った妖まで住むようになって……」

「妖……?」

もう、これ以上目は開かない。惟幸が、ため息を吐いた。

「本当に……馬鹿だよね。もっと加夜姫様の強さを信じて、話しておけば良かったのに。……それに、僕も馬鹿だ。たかよしが加夜姫様を大事にし過ぎて、必要以上に物事を隠している事……彼の性格や今までの事を考えればすぐわかったはずなのに、もう加夜姫様も知っているものだと思い込んで確かめもしなかった」

二人揃って大馬鹿だ、と惟幸は笑う。それから、少しだけ寂しそうな目をした。

「……たかよし。加夜姫様が夢に閉じこもってしまった事がよっぽど堪えたみたいでさ。かなり動揺していたよ。細腕の僕なんかに投げ飛ばされちゃうくらいにさ」

「惟幸様、投げ飛ばしたの? 隆善様を?」

目を瞬いていると、惟幸が照れ臭そうに笑った。どうやら、嘘ではなさそうだ。

笑いながら、空を見る。加夜には聞こえないほど、小さな声で呟いた。

「さて……少しは時を稼げたと思うんだけど……」










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