平安の夢の迷い姫











29











賑やかな大路から小路に入り、人通りが段々少なくなってきた。人目が減った事で、ほっと気が緩む。

今の己は、傍から見たら酷い顔をしている事だろうと隆善は思う。

今にも人に襲い掛かりそうな形相をしているか、気鬱の病で死にそうな顔でもしているか、泣き出しそうな顔をしているか……。

……いや、泣き出しそうな顔は無いな、と心の中で呟き、努めて苦笑する。憂い顔、怒りや悲しみの顔は、鬼を引き寄せる。笑顔は、鬼を遠ざける。

それぐらいの事は、陰陽寮で学び始めたばかりの学生でもわかる。だからこそ、己で鬼を調伏する実力の無い者は、鬼を寄せ付けぬように心掛けなければ。

普段の隆善なら、こんな事は気にしない。怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑う。調伏の実力を持った幼馴染が傍にいたお陰で、他の学生に比べれば鬼や妖への対処法は知っている方だと思う。

しかし。今、気が塞いでしまっているのは、その幼馴染が原因だった。

ほんの数日前、幼い頃から共に遊んできた友人、惟幸が京を出奔したらしい。原因は、端女のりつと恋仲になっていたから。身分の壁に苦しみ、悩みに悩んだ挙句の行動であったという。

それは、別に構わない。むしろ、「あの泣き虫がよくそんな決断をできたものだ」と感心さえした。だが問題は、惟幸が調伏に関してのみ、相当の実力を持っていたという事だ。

面倒事を避けるためか、隠していた。だから、近しい者――惟幸の家に仕えている家人達や、りつですら、惟幸が鬼や妖を相手にするとかなり強いという事を知らない事の方が当たり前のような状態であった。知らないが故に侮って襲い掛かり、あっさりと調伏されてしまった鬼も少なくないらしい。

しかし、それは術に関してそれほど知識を持たぬ者の事。隆善や、その他陰陽の術に通じる者の多くは、知っていた。隆善と惟幸が、幼馴染であるという事すらも。

そして近頃、隆善は勉学に行き詰っていた。博士達の語る言葉が理解できないというわけではない。試験も、問題無くこなしている。それでも、伸び悩んでいる感はある。

自分ができる事は、博士は勿論、陰陽寮に所属する陰陽師、先に学び始めた先輩学生であれば誰でもできる。一方、先輩達が難無くこなす事であっても、隆善にはできない事が多い。実際の調伏現場について行き、些細な失敗をしてしまった事も一度や二度ではない。

学び始めたばかりの学生なのだから、それが当たり前だ。だが、同い年の惟幸がもっと幼い頃にできていた事。それを目の当たりにしていた事から、自分はもっと吸収が良く、様々な事をさらりとこなす事ができると思っていた。

理想と現実が食い違い、頭の中に靄がかかったような気分になってしまう。更に、隆善と惟幸の仲を知る者達によって、冷やかされた。

「お前が今日できなかった事な。お前の幼馴染は、十かそこらの時に、できたそうだぞ」

「今からでも、幼馴染を追い掛けて教えを乞うたらどうだ? きっと、あっという間に我らよりも実力のある陰陽師になれよう」

そう言って、先輩達は笑う。それが、悔しくてたまらない。だが、やり返そうにも、今の隆善にはその術も、実力も、官位も無い。できるのは、いつか彼らを見返すためにただひたすら勉学に励む事のみ。

これでは、見返してやるまでに何年かかるかわかったものではない。……いや、それどころか、いつか見返せる日が来るのかどうかすらわからない。

そこで、考える事を放棄した。顔が再び鬱々とした怒り顔になっているのがわかったが、最早軽い笑顔を作る気にもなれない。

舌打ちをして、石を蹴る。石は別の石にぶつかり、地面で跳ね、築地にぶつかるなどしながら転がっていく。

何気無く石の転がっていく先を眺めていると、不意に奇妙な形の影が視界に入ってきた。そのあまりの奇妙さに、隆善は思わず顔を上げる。そして、目を丸くした。

犬だ。それも、ただの犬ではない。裳を穿いて、単を着て、二本の後足のみで走っている。前足二本は前方に突き出し、人のような笑みを顔に浮かべて、やはり人のようにけたけたと笑っている。

どうやら妖なのだが、通常の妖や鬼と違って、修行をしていない人々にも見えているらしい。辺りを歩いていた者達が全員ぎょっと目を剥き、小路のど真ん中を走る犬を遠巻きにするように体を築地へ寄せている。

「何だって、こんな人の多い場所で白昼堂々……!?」

訝しんでいる間にも、犬はどんどん隆善へと迫ってくる。犬の後に、人の影が現れた。

「つっ……捕まえっ……! 誰かそいつを捕まえてくださいーっ!」

走ってきたのは、壮年の男が一人と、若い女が一人。恰好から察するに、どこぞの家の雑色と端女だろうか。

何を好き好んでこんな化け犬を追っているのかは知らないが、丁度目の前に迫ってきている。

懐に手を突っ込み、ごそごそとまさぐる。丁度、学業の参考にするため、博士の机から失敬してきた呪符があった。妖や鬼の力を弱める効果があるらしいので、まぁ、恐らく使えるだろう。

走り襲ってきた化け犬の頭を、木靴を履いた足で蹴り付ける。犬は、くぉんと悲鳴をあげてひっくり返った。その隙に、符を犬の額に素早く貼り付ける。

「疾く、動きを止めよ。急急如律令」

ぎこちなくも唱えれば、ばたばたともがいていた化け犬は急に大人しくなる。

「おぉ。流石、陰陽博士直筆の呪符。よく効くな」

納得した様子で独り頷いているうちに、この化け犬を追ってきた雑色と端女が隆善の元へ辿り着いた。

「あ、ありがとう存じます! お陰で、騒ぎを大きくせずに済みました……」

「……いや、もう充分騒ぎになっていると思うが……」

肩で息をしながら悠長な事を言っている雑色に、隆善は呆れ顔で返した。辺りの人々は遠巻きでこちらを見ているのに、雑色も端女も、それほど怯える様子も無く化け犬に視線を送っている。

「それにしても……貴方様は一体……? 常のお方であれば、あそこまでお手並み鮮やかにこの化け物を捕らえる事など不可能と存じますが……」

端女は一応、これが非常の事態であると理解してはいたらしい。その事に妙に安堵しつつ、隆善は「あー……」と言葉を探した。

「慣れてるだけだ。これでも陰陽寮で学ぶ学生の端くれ。まだまだ未熟だが……これぐらいの事は、流石にできねぇとな」

「陰陽寮!」

雑色と端女の目が、ぎらりと光った。隆善は見た事が無いが、獲物を狙う猟犬という奴はこのような目をしているのかもしれない。

雑色が、隆善の手をはっしと握った。

「……おい。男に手を握られて喜ぶ趣味は無ぇんだが」

不機嫌そうに言われても、雑色は怯まない。若造だからだろうかと、隆善は空いている手で顔をさすった。その手も、端女の方に握られてしまう。醜女ではないので、こちらはそれほど悪い気はしない。

「あの……お願いがございます!」

先に言ったのは、雑色と端女、どちらであったか。同時に声を揃えて言ったのかもしれない。

「これより、我らが主人の邸まで同道願えませぬか!?」

「……は?」

首を傾げる隆善に、雑色は切り出し難そうな顔をした。どうやら、人目の多い場所では口に出し難い理由があるようだ。

「……まぁ、こいつを見りゃ、邸にもまだ何かあるんだって事は想像に難くねぇけどな……」

足下で伸びている化け犬にちらりと視線をやって、隆善は独り呟いた。そして、両の手をそれぞれ握る、雑色と端女を見遣る。

「……その邸は、遠いのか?」

正直なところ、今の靄がかかったような気持ちでいる己にできる事があるのかどうかは、わからない。……が、普段と違う事をすれば、何事かの流れが変わるかもしれない。

そう考えて、隆善は問うた。雑色が「いいえ」と答えれば、「じゃあ、行く」とあっさり言ってのける。それが余程嬉しかったのか、雑色と端女の顔が光るように輝いた……ように見えた。

「あっ……ありがとう存じます! これでお邸は助かります!」

「姫様もきっと、ご安心なさいます! ありがとうございます……ありがとうございます!」

首が千切れるのではないかと心配になる程、雑色と端女は勢いよく何度も頭を下げた。余程の物が、邸にはあるらしい。

「そう言えば……お名前をまだ……」

恐る恐る言う端女に、隆善は「あぁ」と頷いた。

「隆善だ。瓢谷隆善。さっきも言ったが、まだまだ学ぶべき事が山のようにある学生だ。あまり期待されても困るが……まぁ、できるだけの事はやってみよう」

雑色と端女は、神妙な顔で頷いた。「引き受けて頂けるだけでもありがたい」と、どちらともなく言う。

一体何が待っているのやら……と多少不安になりつつ、隆善は二人について歩き出した。











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