平安の夢の迷い姫











27











幸い、惟幸は在宅していた。

部屋に上り込んだ隆善はまず伊勢物語の写本を渡すと事のあらましを話し、加夜の残した和歌と絵を笑われる事覚悟で取り出し見せた。

惟幸は、笑わなかった。それどころか、渋面を作っている。そして、「は?」と地獄から湧き上がってきたような声を発した。いつもの惟幸らしくない。

「妖が住んでたり呪いの器物を持ってたりする事を隠していた事はともかく、女弟子や女の姿をした人ならぬものが一緒に住んでる事も隠してたの? って言うか、弟子には女もいるって事すら話してなかったの?」

はぁ、と大きくため息を吐いた。

「馬鹿じゃない?」

「お前にそこまで率直に罵られる日が来るとは思わなかったな……」

同じく渋面を作りながら隆善がこぼすと、惟幸は更に大きなため息を吐いた。

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ。何こんなところまで油売りに来てるの? さっさと加夜姫様のところに行ってあげなよ」

「行って、どうすりゃ良いかわかんねぇんだよ。だから、既婚者の意見を聞きにこんなところまで来てんだろうが」

呆れ返った目で、惟幸は隆善を見た。

「わかってるくせに」

訝しげな顔をして隆善が首を傾げ、惟幸は何かを諦めたように、首を横に振る。

「加夜姫様の力は、不安が元で暴走し易い。そう、結論が出ているよね? なら、たかよしが不安を払ってあげる以外に、方法は無いよ」

そして、隆善にできる、加夜の不安を払う方法。それは、隆善が加夜を愛し、いつまでも大切にすると思っている事。それを加夜に信じてもらう事。他の方法は、無い。

「簡単に言ってくれるけどな、どうすりゃ良いんだよ。三日夜の餅を食って夫婦になるのが一番だってのは何度も聞いた。けどな、馬鹿弟子どもを放って婿入りするわけにはいかねぇし、かと言って馬鹿弟子どもまで一緒に加夜の邸に厄介になるわけにもいかねぇ。加夜が俺の邸に来るのも駄目だ。あんな妖や呪いの器物がある面白びっくり邸なんかに加夜が来たら、また何が起こるかわかったもんじゃねぇ」

「けど、もう見られちゃったんでしょ? なら、加夜姫様がたかよしの邸に行っても問題無いんじゃないの?」

「だがな……今回はちらっと垣間見ただけだし、じっくりとあれらを見たら、とんでもない物を空想して現にしちまう恐れも……」

煮え切らない言葉を発する隆善に、惟幸は三度深いため息を吐く。そして、流れるように自然な動作で、隆善の頭に手刀を振り下ろした。烏帽子が飛び、隆善は思わず頭を両手で押さえる。

「……っ! てめぇ、何すんだ!」

「何って、うだうだと煮え切らないたかよしに喝を入れようと思っただけだけど?」

つんとそっぽを向いて言う惟幸に、隆善は目を剥いた。

「喝を入れるなら、他にやりようがあんだろが! 何で手刀なんだよ。烏帽子が落ちたじゃねぇか!」

烏帽子や冠を被るのは、成人している証だ。それを落としたというのは、大人として非常に恥ずべき事である。だが、怒る隆善を、怯む事無く惟幸は睨み付けた。

「烏帽子が、そんなに大事?」

「……あ?」

押し殺したような声に、隆善は顔を顰めた。惟幸はもう一度、「烏帽子がそんなに大事?」と低い声で言う。

「烏帽子を落とさずに被っている事が、そんなに大事なの? 不安で苦しんでいる加夜姫様を救うより? たかよしの事をずっと慕ってくれている加夜姫様を幸せにする事よりも?」

「……言いたい事、言ってくれるじゃねぇか……」

烏帽子を拾い上げながら、隆善も低い声を発する。額には青筋が浮かび上がり、いつ切れてもおかしくない。

「世間体だとか、身内の始末だとか、将来のための根回しだとか……大人には色々とあるんだよ。大人になる責任を放棄して、好いた女と好きな場所で好きなようにやってるような奴にはわからねぇんだろうけどな。この而立越え童が!」

「童で良いよ。愛しい人が苦しんでいて、それを救う手立てがあるのに何やかやと言い訳して……それが大人だと言うのなら、僕は一生、童のままで良い。百寿越え童と呼ばれたって構うもんか。それとも、何? たかよしは、本当は……加夜姫様の事が、そんなに大事じゃなかったって事? だからそんなに、世間体だとか烏帽子だとかを気にしていられるの?」

「んだとっ!?」

頭に血が一気に上り、烏帽子も被らぬままに隆善は惟幸の胸倉を掴んだ。その腕を惟幸は両手で掴むと、ぐい、と己の方に引っ張った。

「なっ!?」

目を丸くしている間に隆善の体は宙を舞い、床に叩きつけられる。どぉん、という派手な音がして、りつが慌てて様子を見に来た。しかし、一目見て手や口を出せる状況ではないとわかったのか、すぐに顔を引っ込めてしまう。

「お前……」

床に仰向けになったまま目を丸くしていると、惟幸は軽く息を吐きながら肩を鳴らした。どこか勝ち誇ったように、にや、と笑う。

「本当に童子だった頃の、たかよしに毛虫を投げられては泣いてた僕のままじゃないよ? りつと京を出奔してからも、鬼に襲われたり、夜盗に襲われたり……色々あったんだ。通りすがりの武士にちょっとした護身術を教えてもらったり、今でも宵鶴相手に稽古をしたり……。これでも、太刀だって少しは使えるんだよ? ……僕はたしかに、りつと一緒になるために、家と、京に住む貴族としての責任を捨てた。けど、その分、別の事で一応の努力はしてたんだから。じゃないと、愛しいりつを守れない。……己の望む世で生きたかったら、好きな事ばかりをしているわけにはいかない。それぐらい、元服していなくてもわかるよ」

言葉を言い終わる頃には、どこか寂しげな笑顔になっていた。だが、その表情はすぐに仕舞われる。惟幸は再び、穏やかな顔付きになった。

水干を脱ぎ捨て、乱れた着物の衿を整える。その間に隆善も起き上がり、着物の乱れを直した。烏帽子は、何となく被る気になれない。

惟幸は、床に散った和歌と絵を手元に引き寄せ、じっくりと眺める。それから、伊勢物語の表紙も眺めた。

「……たかよしはさ。この歌と絵を見た時、どう感じたの? 加夜姫様が何を伝えようとしているんだと思った?」

「何って……」

言葉に詰まった。言い辛そうにする様子に、惟幸が先んじて口を開く。

「天つ風、雲の通い路吹き閉じよ。愛し背の君、しばしとどめん。……何が言いたいか、元の僧正遍昭の歌を思い出せば、流石に和歌が苦手な僕でもわかるよ。愛し背の君……つまりたかよし、瓢谷隆善に、もっと目の前にいて欲しい。昨夜、着物を繕ってもらえそうな葵に嫉妬してさっさと帰っちゃった事を、ちょっとだけ恨みがましく言ってみたのかな? たかよしと加夜姫様の二人が描かれた絵も、もっとこうしていたかったのに……っていう気持ちの現れだろうね」

「……わざわざ和歌やら絵やらにしなくても、直接言やぁ良いのに……」

「加夜姫様は、甘えるのが苦手なんでしょ」

水干を再び着る気が無いのか、脱ぎ捨てた物を後に押しやる。暴れて暑くなったのか、手扇で顔を煽いだ。

「考えた事が現になってしまう分、自分の気持ちをわかりやすい言葉にするのに気後れしてしまうんだと思うよ。だから気持ちは和歌や絵にするし、あれだけの書物を読んで勉強もする」

言いながら、伊勢物語をぱらぱらとめくる。めくるだけで、中身を読んでいる様子は無い。

「伊勢物語はともかく、加夜姫様の部屋……随分と難しい書物もあったよね? 漢籍なんて、女人は普通読もうとしない。なのに、加夜姫様の部屋にはそれがあった。……何故だと思う? たかよしの事を、知ろうと思ったからだよ」

「ちょっと待て。何で漢籍を読む事が、俺を知る事になるんだ?」

「たかよしの事を知りたいけど、たかよしの仕事の事を教えてくれって訊く事ができなかったんじゃないの? 暦にしろ天文にしろ陰陽にしろ……陰陽寮の仕事内容なんて、漢文に親しめなきゃ話にならないしね。山海教が部屋にあったのも、妖の知識を深めて、たかよしの仕事に少しでも理解を示して、たかよしと話せる話題を増やしたかったんじゃないかと思うよ」

隆善は、絶句した。あの部屋に山と書物が積まれている事には、以前から気付いていた。だが、何故こんな物を好き好んで読むのだろうとしか考えた事が無かったのだ。

それが伝わったのだろう。惟幸は再び厳しい顔をして、畳み掛けた。

「あの絵だってそうだよ。妖ばかり描いたのは、たかよしの事を少しでも理解したかった。たかよしが仕事をしている姿を見てみたかった、っていうのが大きいんじゃない? それに、あのさとり……」

「さとり? ……あぁ、加夜の姿をしていた……」

惟幸は、頷いた。

「何故、あのさとりは加夜姫様の姿をしていたか? これも、完全に推測なんだけど……加夜姫様自身が、たかよしの心の内を知りたいと思っていたからなんじゃないかな?」

「俺の……心の内?」

「そう。たかよしは、いつも自分の事をあまり話してくれない。仕事や弟子の事を訊いても、何となくはぐらかされてしまう。実は、加夜姫様がたかよしの事を一方的に慕っているだけなんじゃないのか。たかよしは加夜姫様の事をどう思っているのか知りたい。加夜姫様が、もしさとりのように心を読む力を持っていれば、たかよしの真意を知る事ができるのに……」

「……」

黙り込んだ隆善の顔を、惟幸が覗き込んだ。手から烏帽子を奪い取り、被せてやる。慣れていないからだろうか、少し、歪んだ。

「……加夜姫様の事、大事なんでしょ? 世間体もあるのに京を守らず、こんな山の中にまで相談に来ちゃうくらいにさ。なら、早く行きなよ。余計な事、考えてないで」

黙ったまま、隆善は立ち上がる。どこか遠慮をした様子で、烏帽子の歪みを直した。

「……悪い。恩に着る」

ぼそりと言われた礼の言葉に、惟幸は苦笑した。

「別に。お礼を言われるほどの事はしてないよ。それどころか、ぶん投げて床に叩き付けちゃったし」

そう言ってから、惟幸は三式神の名を呼んだ。

「戻ろうにも、加夜姫様が現にしてしまったあれやこれやで、京の中を歩くだけでも一苦労でしょ。明藤達を護衛に付けるから、まずは確実に加夜姫様の邸に辿り着けるよう頑張りなよ」

「……あぁ」

頷き、隆善は三式神を伴って山を下りていく。その後ろ姿を見送ってから、惟幸は部屋に戻り、ふと考え込んだ。

「占いはあんまり得意じゃないんだけどね……」

独り呟き、指を折る。そして、その結果に「へぇ」と目を細めた。

どこか面白そうな顔をすると、惟幸は簀子縁へと出る。りつの姿を探し、見付かったところで名を呼んだ。

「はい。……どうなさいましたか、惟幸様?」

すぐに応えてくれた愛しい妻に、惟幸は一瞬、相好を崩す。しかし、すぐに顔を引き締めた。

「りつ。僕は今から、たかよしを援けるためにまた夢の世界へ潜ろうと思う。もし夕方近くになっても目覚めなかったら、家事とか何も考えずに、すぐに戸締りをしてもらっても良いかな? 夕餉は糒で済ませちゃえば良いから。僕が寝ている間に鬼が出たりしたら、危ないからね」

「はい、わかりました」

頷いて、りつが家事を片付けるべく足早に去って行くのを見守ると、惟幸は部屋に戻り、蔀戸を降ろしてごろりと横になった。寝付の良い性質なのか、すぐにうつらうつらとし始める。

うつらうつらとしながらも、どこか心配そうな口調で呟いた。

「たかよし……加夜姫様のいる夢の迷い路に、ちゃんと辿り着けると良いんだけど……」

眠さに負けたのか。その言葉はもう、心配そうな声音の、むにゃむにゃという寝言にしか聞こえなかった。











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