平安の夢の迷い姫











10











月の光を浴びながら、葵はぽくぽくと歩いている。横には、暮亀。式神である暮亀は、月光の下を歩いても影が生まれない。

「……暮亀。大丈夫かな、師匠達……」

『おや。葵様は、惟幸様達のお力を信じていらっしゃいませぬのか?』

「違うよ。師匠達が色々な意味で強いのは、よぉぉぉっく! 知ってるって。そうじゃなくて……」

一度言葉を止めて、先刻の加夜の邸での事を思い出す。はぁ、と思わずため息が出た。

「……師匠達……必要以上にふざけ合ってないと良いんだけど……」

『あぁ。お二人とも、仲がよろしいですからな』

皺だらけの顔をくしゃりと歪め、胸まで垂れた白い顎鬚を震わせながら、暮亀はほっほっほと好々爺然として笑った。

『それよりも、葵様。ほれ、あそこに見えるのは、加夜姫様の絵ではございませぬか?』

そう言って暮亀が指差した先には、ある大きな邸を囲む築地塀。たしかこの邸は、十数年前に無人となり、今ではすっかりと荒れ果てて、羅城門もかくやという化け物の巣窟になっている。

ここで逢引をする者が何組も何組も化け物に遭遇し、その度に陰陽師の名門である安倍家や賀茂家は勿論、陰陽師の中ではまだまだ若輩者である隆善の元にも「何とかしてくれ」と依頼が入ってくる。

葵も何度か隆善に依頼を丸投げされて調伏に訪れ、その都度化け物や鬼を調伏しているのだが……調伏しても調伏しても、少し経つとまたすぐに新しい化け物や鬼が湧いて出る。

どうやらこの邸、化け物達が酷く好む気を発しているらしい。中に入ってその荒れようを目の当たりにすれば、納得できるのと同時に「この邸、早く取り壊してくれないかなぁ」などと考えてしまう葵である。

「何かさぁ……よりにもよって、この邸に加夜姫様の絵が飛んできているとか……俺、嫌な予感しかしないんだけど……?」

少々虚ろになった目付きで、葵はじっと前を見る。邸を囲む築地から飛び出た松の枝に、一枚の紙が引っ掛かっている。夜闇の中で際立つ白いそれこそ、加夜の描いた絵の一枚だ。

『葵様の勘は、よく当たりますからな。特に、悪い予感の時は』

暮亀がまたもや、ほっほっほと笑った。葵は、がくりと項垂れている。

「どうせなら、良い方に当たって欲しかった……」

『それはさておき、葵様。早いところ、あの絵を懐に収めた方が良いのではありますまいか? またいつぞや、風があの絵を攫っていってしまうやもわかりませぬし、この邸では、鬼に邪魔立てされる恐れもございますぞ』

「……そうだね。それにあの絵、いつ描かれた絵が現になるかもわからないんだよね」

そう言うと表情を引き締め、葵は築地から飛び出した松の枝を睨み付けた。絵は、絡み付くように枝に引っ掛かっている。それなりに強い風でも吹かぬ限りは、また飛んでいってしまうような事は無さそうだ。

「野駆の術で勢いを付けて、跳び上がれば……あそこまで届くかな?」

『左様でございますな。ただ、その前に、手に布を巻いておいた方がよろしいでしょう。松の葉先で傷だらけになってしまっては、しばらくの間、手を洗う度に沁みますぞ?』

その痛みを想像したのか、葵は顔を顰めた。懐から手巾を取り出し、ぐるぐると馬手に弽を嵌めるように巻き付けると、「よし」と呟いた。大きく息を吸い、吐くと、加夜の邸でそうしたように、何事かを囁くように唱え始める。

次第に、足に力が漲っていく。馬の嘶きが、耳朶を打ったように感じた。

大きく息を吸い、呼吸を止める。そして、吐くと同時に地を蹴った。

「疾っ!」

小路を一気に駆け、気合の声を発して更に強く地を蹴り込む。勢いに乗って、葵の体は宙に跳び上がった。

あっという間に松の枝だが目先に迫り、引っ掛かった絵を掴み取ろうと葵は手を伸ばす。

だが、その時。白い何かがさっと間に割り込んだ。葵の眼前から絵を掻っ攫っていったものがある。

「!?」

目を見開いたまま地に落ちた葵は、着地すると同時に再び枝を見る。何者の姿も見えない。鳥の羽音も聞こえない。

「……と、いう事は……」

『横取り犯は、邸の内から手を出してきた事になりますな』

淡々と言ってのける暮亀に、葵はため息を吐きながら項垂れた。

『やはり、当たりましたな。葵様の悪い予感は』

「……本当、この邸、早く取り壊してくれないかな……」

力無く呟きながらも、葵はきょろきょろと辺りを見渡した。

「とにかく、まずは邸の中に入らないと……。たしか、門の場所は……」

『おや、律儀に門からお入りになるのですか? 既に無人となり荒れ果てた廃屋……築地を越えて侵入したとて、咎める人もありますまいに』

「師匠に、やるなって言われたばかりだし。盗人同然とか言われちゃ、流石にさっきの今で同じことをやる気にはなれないよ」

苦笑しながら築地を辿り、崩れかけた門に辿り着く。そっと門内を覗いてみれば、案の定、雑草は茫々と生い茂り、邸の屋根はいつ崩れてもおかしくない。

いつも通りだ。……いや、訪れる度に酷くなっていく。それは、この邸を根城としてきた代々の鬼や妖が暴れたせいでもあれば、逢引をしに来て鬼に遭遇し、太刀を振り回した貴公子達のせいでもあり、調伏に来て勢いをつけ過ぎてしまった葵のせいでもある。

「……いっそ、勢いをつけ過ぎた事にして、今日こそこの邸にとどめを刺してやろうか……」

『葵様、目が据わっておりますぞ。それと、実に頼もしげな案ではございますが、たかよし様の仕置きを受けたくなければ、やめておいた方が良いように存じますな』

「……だよね……」

もう一度ため息をつき、葵は懐に手を突っ込んだ。ごそごそと、何かを探す。

「えぇっと……符、符……灯火の符……」

一度仕舞った手巾やら、懐紙に包んだ唐菓子やらを取り出し、やっとの事で一枚の符を見付け出す。

『……葵様……』

「……うん。懐の中も、整理整頓しないとね……。必要な時すぐに符が出せないようじゃ、危険過ぎるし」

面目なさげに懐の中身を一旦全て取り出した。数枚の符と、手巾、唐菓子、懐紙に数珠、護身用の短刀。

葵はほんの数瞬考えただけで懐紙、手巾、唐菓子、符の順番に懐へ押し込み、短刀は帯に挟み込んだ。数珠はいつでも使えるよう、左の手首に巻きつけておく。

改めて一枚の符を摘み上げ、ふっと息を吹きかける。

「疾く照らせ。急急如律令」

呟くように唱えて、符を持った馬手をさっと振る。たちまち、符が煌々と輝き出した。

「これで、しばらくは安心かな? 俺の実力だと、四半刻ぐらいが精々だけど」

『左様でございますな。では……』

頷き合い、葵と暮亀は邸の敷地へと足を踏み入れた。











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