平安の夢の迷い姫























さくさくと、隆善は草に足を取られる事も無く山を登っている。小さな包み以外の荷を持たず、供も連れていないが、特に不便をしている様子は無い。

京を出てそれほどかからない場所にある、京を高所より望む事ができる山。その中腹に、惟幸は住んでいる。山道を歩き、木々を抜けると、そこにいきなり庵が現れる。

庵と言っても、それほど粗末な物ではない。屋根を葺く草や柱に使われている木材こそあまり良いものではないが、造りは頑丈で立派だ。部屋はいくつもあるし、簀子縁も設けられている。京の邸から対屋を一つそのまま持ってきたような格好だ。

話によれば、以前この山の麓にある村が鬼達に苦しめられていた事があるのだという。

誰一人逃げ出す事ができず、京に助けを求める事もできずに村人達が途方に暮れていた時に、たまたま駆け落ちをして住処を探していた惟幸が現れた。そして、一日もかけずに鬼達を一匹残らず退治してしまったのだそうだ。

感謝した村人達が、自分達の近くに住む事を惟幸に勧め、この立派過ぎる庵を建ててくれた。そして今でも、村に鬼が出れば惟幸は山を下って鬼を退治したり、山で採れた薬草で作った薬を届けたりして。代わりに村人達は米や野菜、時には魚や肉までくれてと、交流は続いているらしい。

竹と草を編んで作られた垣に設けられた門をくぐり、勝手知ったる様子で土間に上り込む。音を聞き付けたのか、奥から女性が一人、急いだ様子で顔を出した。伽羅色の着物は少し汚れてしまっているが、可愛らしい顔立ちをした、三十を少し過ぎたぐらいの女性だ。惟幸の妻女であろう。

「あら、瓢谷様」

「おう。邪魔するぞ、りつ。惟幸はいるか?」

手土産の包みを手渡して問うと、惟幸の妻女――りつは、少し困ったような顔で奥に視線を遣った。

「いるには、いるのですけど……」

「あん?」

首を傾げた隆善を、りつは奥へといざなった。簀子縁を歩き、奥の部屋へと向かう。下がりっ放しの蔀戸から、部屋の中を覗いて、隆善は顔を顰めた。

「……おい。もう昼だぞ。でもって、昼寝するにはまだ早ぇ」

部屋の中央に敷かれた畳の上では、既に陽が高く昇っているにも関わらず、惟幸が未だ眠りについていた。

「昨夜、また鬼が出たんです。それと対峙していて、あまりお眠りになっていなくて……。それに、最近は加夜姫様の事で眠ってからもお働きになっていて、深く眠れていないようで……」

顔を見る限り、りつは少し怒っているようだ。加夜の件は隆善が依頼をした事に端を発しているだけに、ばつが悪い。言われて見れば、顔色もあまり良くないようだ。

「……が、だからと言って起きるのを待っていたら、俺が帰れなくなるからな。悪い、起きろ」

勝手に蔀度を上げて中に入り、幼馴染の気安さで、隆善は惟幸の足を軽く蹴った。りつが顔を顰めて、ため息を吐く。……が、惟幸は起きない。少し唸っただけで、寝返りを打った。

りつが再び息を吐いて、惟幸の両肩に手を遣った。優しく揺すり、耳元に声をかける。

「惟幸様、惟幸様?」

「むー……?」

再び唸り、惟幸が薄目を開いた。

「瓢谷様がいらっしゃっていますよ」

「たかよしが……?」

覇気の無い、寝惚けきった声で呟く。まだ眠そうな目が、隆善の顔を見た。

「……あぁ、そうか……まだ夢の中なんだ……。たかよしがうちにいるわけないもんねぇ……」

それだけ言って、また寝てしまう。

「おい」

不機嫌に声をかけると、「冗談だよ」と言いながら、惟幸はむくりと起き上がった。りつが水を張った角盥を運び、顔を洗うと大きな欠伸をする。まだ眠そうだ。

「……それで、今日は何の用? たかよしがここに直接来るなんて五年ぶりくらいじゃない? はっきり言って、ろくな予感がしないんだけど」

既に陽は高く昇っているが、りつが朝餉にと言って水漬けを運んできた。胡乱な目をしながら、それをかき込む。

「決まってんだろ。加夜の事だ」

「あぁ、やっと三日夜の餅を食べる気になった?」

「ここ数日の流れで、何でそういう話になるんだ」

憮然とする隆善の前で、惟幸は水漬けのおかわりを求めた。椀を受け取り、美味そうに食べる。

「いやだって、夢の中で二度お会いしただけだけど、加夜姫様、たかよしの事頼り切ってるって言うか、もうこれ以上愛しい気持ちは無いって様子じゃない。たかよしはたかよしで、僕に頼みごとをしてでも加夜姫様の事を守ろうとしてるぐらい大切に想ってるんでしょ? なら、さっさと夫婦になっちゃえば良いじゃない」

傍に控えていたりつに顔を向けて、「ねぇ?」と言って微笑む。りつは、返答に困った様子で曖昧に微笑んだ。

「まず、たかよしと加夜姫様が一緒に暮らすようになれば、それだけ有事の際に対処が早くできるようになるじゃない。たかよしが一緒にいれば、その分だけ加夜姫様の不安も減って、騒ぎも減るだろうし」

「……どういう事だ?」

怪訝な顔をする隆善に、惟幸は「あれっ?」と首を傾げた。

「……ひょっとして、気付いてない……?」

「何がだ?」

惟幸はがくりと肩を落とし、「あー……」と地を這いずり回るような唸り声を発した。

「……あのね、たかよし。加夜姫様から聞いたんだけど、たかよし、今までに二夜以上続けて加夜姫様のところに通った事が無いんだって?」

「そう……だな。覚えが無ぇ」

惟幸の呆れ返った顔が、見ていて癇に障る。険しい顔をした隆善に、惟幸はため息を吐いた。空になった椀を、膳に置く。

「加夜姫様があれこれ考えて、それが現になってしまう一因は、明らかにそれだよ。たかよしに会いたくて会いたくて、寂しいのを紛らわせるために考えてしまうんだ」

子どものうちは、単純に様々な空想をする事が大好きな人柄だった。それが長ずるにつれ、寂しい時や不安な時に考え事をする事で気を紛らわせるようになったのではないか、と惟幸は言う。

「ほんの数例聞いただけだけど……加夜姫様が今までに現にしてしまったものは、どんなもので、どんな状況で生み出された?」

蘇を狙う化け鼠。部屋一面の蛍。雪に紛れた桜の花に、貴公子に侍る龍。宙を舞う人魂や、踊り狂う狐狸や付喪神に精霊。そして、夢の中で惟幸が倒した鬼。指折り数えて、惟幸は「考えてみて」と言った。

「鬼を除いて、全部が全部、考えるだけなら楽しい物だよね。龍や人魂だって、目の前の貴公子に似合いそうだ、っていう陽の気寄りの考えから生み出されてる。鬼だって、元はと言えば〝鬼と戦う格好良い隆善様が見たい〟って気持ちから想像してしまった可能性が高いしね」

「……だから?」

言わんとする事は、わかる。だが、それを実際に己の口で言うのは難しい。……いや、気恥ずかしいと言うべきか。

「たかよしが一緒に暮らすようになれば、加夜姫様が考えたものが現になってしまう騒ぎは減るよ、必ずね。たかよしがずっと傍にいれば、寂しさが消える。たかよしと夫婦になれれば、いずれたかよしに捨てられてしまうんじゃないかという不安も消える。寂しさや不安が消えれば、気を紛らわせる必要が消えて……」

「わかった、わかった。もう良い」

手で言葉を押し止めて、隆善は息を吐いた。腕を組んで、唸る。

「何か不安がっているような気はしていたが、それが原因か。……付き合いがあったり、馬鹿弟子どもの尻を拭ったりで、何やかや忙しいからな。ついついそのままにしちまってたんだが……そんなに気にしていたとはな」

「加夜姫様、御歳は二十五か六ぐらいでしょ? 女人がその歳で夫婦になる相手が決まっていなかったら、そりゃ不安になるよ」

「そういうもんか?」

「たかよしは、自分の尺度で物事を考え過ぎ」

隆善は、腕を組んだまま、もう一度唸った。

「けどなぁ……」

「何? 悪あがきの言葉なら、今のうちに吐いておきなよ」

半目で言う惟幸に、隆善は「あのな……」と肩を落とした。

「夫婦になったとして、だ。俺は、どっちに住みゃ良いんだ?」

「え?」

「え? じゃねぇよ。馬鹿弟子どもも連れて、加夜の邸に住むわけにはいかねぇんだぞ」

「たかよしの邸に、加夜姫様が移り住むんじゃ駄目なの?」

不思議そうに言う惟幸に、たかよしは再び、「あのな……」と言ってため息を吐いた。

「鬼こそ出ねぇがな。俺の邸に加夜が住んで、ただで済むと思うか?」

「……あ」

「やっとわかったか、この呆けが」

ふん、と荒く鼻息を噴き出した。惟幸の顔は、呆れが増している。

「何で勝ち誇った顔してるのさ……」

「とにかく、だ」

腕を解き、重く息を吐いた。

「三日夜の餅を食えば、もう夫婦だ。夫婦になれば、一緒に暮らさねぇわけにはいかねぇ……が、俺の側にも加夜の側にも、一緒に暮らせねぇ理由がある。……わかるな?」

「うん……夫婦になったのに一緒に暮らせないとなったら、逆に不安が強まりそうだね……」

不承不承、惟幸は頷いた。そして、諦めた様子でため息を吐く。

「じゃあ、とりあえず……昨夜加夜姫様とお会いした事でわかった事だけは伝えておくよ。まずさっきも言った事だけど、ここ数年に限って言えば、加夜姫様が特に力を発揮してしまうのは、たかよしと会えなくて不安や寂しさが高まっている時だ。気を紛らわせるために楽しい事を考えて、その結果、考えたものが現になってしまう。これは、たかよし以外の貴公子と会った時にも当てはまると思う。初めて会う人と話すって、緊張する事だから……」

緊張を紛らわせるために、龍や人魂が似合うだの、狐狸達が踊り狂う様子だのを考えてしまったのだろう。

「寂しがらせて不安にさせちまったのは、猛省する。三夜通うと三日夜の餅が出ちまうからな。せめて二夜は続けて通えるように善処する」

「そうしてよ。それで、次……現になるものは、加夜姫様が頭の中ではっきりと思い描いたものだけ。何となく、ぼんやりと頭に浮かんだ程度じゃ、現にはならない」

「その根拠は?」

「昨日の化け鼠騒動だよ」

言ってから、惟幸は隆善の顔をじっと見た。そして、くくっと笑い声を漏らす。

「……おい、何だ急に」

「ごめ……夢の中で、加夜姫様が描いた絵を見せてもらったんだけど……それに描かれてた、たかよしがあまりに格好良かったから、思い出したらつい……」

くくく……と笑う惟幸に、隆善は憮然とした。

「加夜の奴……俺の事まで絵に描いていたのか……と言うか、何故笑う」

「たかよし、加夜姫様の前では、ずいぶんと格好つけているんだねぇ……」

ひとしきり笑い、床をばんばんと数度叩いてから、惟幸は、はー、と息を吐いた。

「たかよしも一度、見せてもらうと良いよ」

「うるせぇ、黙れ。必要な情報だけ寄越せ」

必要だと思うんだけどなぁ、と独りごちながら、惟幸は米神をとん、と指で叩いた。考えをまとめながら喋っているようだ。

「加夜姫様が鼠の絵と一緒にたかよしの事も描いたのは、化け鼠に襲われそうになったところにたかよしが現れて、助けてくれる……という様子を考えてしまったからだそうだよ。よくわからないけど、女人にとっては憧れる光景なのかな? それで……あの絵は、二枚で一組なんだ。だけど、現になったのは化け鼠だけで、絵のたかよしは現れなかった。だから、たかよしを呼ぶ事になったんだよね?」

「ね? と言われても、俺が絵に描かれている事なんて今初めて知ったんだ。それが理由で呼ばれたのかどうかなんざ知らねぇ」

「まぁ、そういう事だと思っておいてよ」

苦笑し、そして表情を引き締める。

「何故、たかよしの絵は現にならなかったか? 加夜姫様にとっては、己の目の前にいる、生きたたかよしだけがたかよしなのであって。どれだけ格好良くても、絵に描いたたかよしは今一つたかよしと思う事ができなかった。己が危ない時に都合よくたかよしが現れて助けてくれる、なんて事は無いという事もわかっていた。だから、絵のたかよしは現にならなかったんだ」

隆善の顔が、心なしか赤くなったように見えた。惟幸は、少しだけ意地悪く笑って見せる。照れ隠しなのか、すぐに隆善に頭を叩かれた。痛そうに顔を顰めながら「それと……」と言葉を繋ぐ。

「化け鼠にしろ、格好良いたかよしにしろ。描いたのは化け鼠達が現れる数日前だそうじゃない。頭で考えただけの時はすぐに出るのに、絵に描くと数日の間が空く。……これは、考えているだけではぼんやりとした姿だったのが、絵に起こす事ではっきりとした姿を持つようになり、それを加夜姫様が認識して、更に数日頭の中で寝かせる事によって生き生きと動き始めるようになり、最後に現と化したと考える事ができると思うんだ」

「なるほどな……たしかに、ただ頭で考えているよりは、絵にして一度目で見た方が、その姿をよりしっかりと思い描く事ができるようになるな」

「加夜姫様には、どんな些細な想像でも絵に起こすように、と伝えておいたよ。あと、絵に起こしたらすぐにたかよしに相談するように、ともね」

それで良い、と、隆善は頷いた。

「悪いな、手間かけた。それと……多分もうしばらく、手間をかけさせる」

「全然構わないよ。僕とたかよしの仲じゃない」

にこにこと笑いながら言ってから、「あ」と思い出したような声を出す。

「もし、礼か何かをしなきゃ気が済まないって思うならさ。今度、加夜姫様の描いた絵を何枚か貰ってきてよ」

「加夜の絵を?」

訝しげに言う隆善に、惟幸はにこやかに頷いた。

「主に、たかよしを描いた物中心で。山の中で暮らしていると、どうしてもお腹を抱えて笑えるような事って中々無いからさ」

「惟幸、てめぇ……」

隆善の顔が、一気に険しくなった。額には青筋が浮いている。

「人が下手に出たからって、調子にのってんじゃねぇぞ。加夜の件が片付いたら、本気で呪い殺してやろうか……!」

「だから、友達を呪詛返しで殺したくないから呪わないでほしいって、何度も言ってるじゃないか。……と言うかさ、たかよし?」

「何だ」

険しいままの顔で問えば、惟幸は呆れたような顔をする。

「前々から思ってたんだけど、言葉遣い、悪過ぎじゃない? 三十五歳の朝廷陰陽師だよ? そろそろ、歳に見合った言葉遣いをしようよ。子どもじゃないんだからさ」

「お前に言われたかねぇよ。三十五にもなって未だに元服もしてねぇ而立超え童が。烏帽子親の当てが無ぇなら、適当に見繕って頼んでやるから。いい加減元服しやがれ」

「嫌だよ。今更朝廷に仕える気は無いし、元服しなくても愛しい人を妻にできたし、薬と鬼退治で生活だってできてるし。元服したところで、世の中のしがらみに煩わされるだけで、何一つ得する事が無いじゃないか。面倒臭い」

「お前……」

呆れた顔で肩を落とし、ため息を吐くと隆善は立ち上がった。

「ま、とにかく助かった。……いや、助かってる、か。加夜とは一度話をして、できるだけ通えるようにする」

「もう帰るんだ?」

見送りに立ち上がろうとする惟幸とりつを、手で制する。そのままもう一度寝ろ、と強めの口調で言った。

「俺の言えた義理じゃねぇが、顔色悪ぃぞ。お前の事は、何だかんだで当てにしてんだ。途中でぶっ倒れて離脱なんてされたら、敵わねぇからな」

早口でまくし立てると、早足で部屋を出、簀子縁を歩いていってしまう。呆然と後姿を見送ってから、惟幸はぷっと噴き出した。

「たかよしが僕の事を心配してくれるなんて、これは夏なのに雪が降るかもしれないね。冬の着物を出しておいた方が良いかも」

惟幸の楽しそうな顔に、りつもくすりと笑う。妻の笑顔に、惟幸は更に破顔した。そして、「りつ」と名を呼ぶと、ちょいちょいと手招きをして見せる。

「どうされましたか?」

小首を傾げて近寄ったりつの手を取り、惟幸は己の胸へと抱き寄せた。

「こ、惟幸様……?」

「……しあわせ……」

顔を赤くしたりつを抱き締めながら、惟幸はほぉ、と息を吐きつつ呟いた。春の日向で和んでいるような、穏やかな声音だ。

「愛しい人と、こうしていつでも一緒にいられるのって……何でこんなにも幸せに感じるんだろうね……」

また少しだけ眠くなってきたような声だ。

「たかよしと加夜姫様にも、この幸せを味わって欲しいんだけどなぁ。……中々、上手くいかないねぇ……」

もう一度、「しあわせ……」と呟いた。幸せそうなのに、どこか思い悩んでいる声。

りつは両腕を惟幸の背中に回し、ぎゅっと、抱きしめ返した。いつしか、すぅすぅという穏やかな寝息が聞こえ始めた。












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