平安の夢の迷い姫






















京は左京、西洞院大路沿いにある、そこそこ大きな邸。その邸の主たる加夜姫は御年二十六。色白で儚げで、十人が見たら九人は美しいと感想を抱くような姫君だ。

それなのに、加夜姫は未だ誰とも婚姻関係を結んでおらず、その証拠に歯は白い。何故か。

文を送ってくる男がいないわけではない。加夜が十代半ばであった頃には、加夜への想いを歌った文が引きも切らずに届いただの、文使いの童が先を競い合っただのという逸話も残っている。

邸の中に招き入れた男も、両の手の指では数え切れないほどいた。だが、どの男も決して、二日以上通ってくるという事が無かった。それどころか、一刻以上邸に滞在できた男がまず、いない。何故か。

招き入れた男達は、必ずこう叫びながら、邸を飛び出してくる。

「こんな化け物邸にいられるかぁっ!」

化け物邸。僅かな時であっても、この邸で過ごした者は皆、こう言う。

しかし、決してこの邸に化け物が住んでいるわけではない。化け物が出ない夜もある。逆に、昼間であっても客が逃げ出してしまうような日もあった。

それほど古い邸ではない。新築ではないが、それでも化け物が住みつくほど古くなってはいないし、手入れを怠ってもいないはずだ。

付喪神と化すほど長い時を経た器物も、無い。あっても精々、一つか二つだろう。

住人は、加夜を始め、女房も下人や端女も童達も、皆、特に誰かを恨んだり誰かに恨まれたりするような性質は持っていないような者ばかりだ。誰かが諍いを起こしている気配も無い。

貴公子の立身に影響を与える事ができるほどの力を持っているような家柄でもないし、入内を狙っているわけでもない。

呪われたり、化け物を生み出してしまうほどの邪気を発したりしているわけではないのだ。

なのに、この邸は化け物邸と呼ばれている。何故か。

実はその原因は、邸の主である加夜自身にあった。幼い頃……それこそ、物心がついた頃からずっとそうであったのだが、加夜には一つ、常人とは違う点があった。

脳裏に思い描いた事柄を、現実のものとしてしまう。

雪が舞っている日に

「雪と一緒に八重桜の花が舞い散っていれば、きっと綺麗でしょうね」

などと呟けば、いつの間にか白い雪の中に薄紅色の八重桜が混じって舞っている。

小舎人童や牛飼い童が犬と戯れて喜んでいる姿を見て

「あの犬が今の気持ちを言葉にできたとしたら、何て言うのかしら?」

 と首を傾げたが最後。犬はおもむろに童達を見上げて、人語を放った。

「よぉ、坊ちゃん達。撫でるなら腹にしてくれや。尻尾は駄目だ、俺の大事なところだからな」

可愛らしい顔から発せられた野太い声に、童達が泣き出したのは言うまでもない。

一事が万事、この調子。しかもこの加夜姫、幼い頃から様々な空想に耽るのが一日二度の食事よりも好きときている。

つまり加夜は、何かを見るにつけ何事かを空想し、その度にそれを現のものとしてしまう。加夜自身にこの夢を現とする力を都合よく使い分ける事はできないらしく、全て垂れ流し状態だ。

そして、空想を好む人間にとって、空想を止める事というのは、恐らくこの不思議な力を使いこなす事よりも難しい。止めようと思ったところで、思い付いてしまう事を止める事は思考停止でもしない限りできないものだ。思考を停止してしまえば、誰かと会話をする事すら困難になってしまう。

加夜の邸が化け物邸と呼ばれる所以は、つまりは、そういう事だ。

加夜の美貌の噂を聞き付けた貴公子達が文を送ってくる。文を読み比べ、この人こそは、と思った貴公子を邸に招き入れる。

招き入れた貴公子と御簾越しに向き合い語らっているうちに、加夜はついつい考えてしまうのだ。

「このお方は、龍を傍らに侍らせていたらきっと素敵だわ」

小ぶりな龍が現れて、貴公子は邸から逃げ出した。

「このお方の周りに青白い人魂が舞っていたら、蠱惑的に見えそう」

青白い人魂が部屋の中を飛び交い、貴公子は女のような悲鳴をあげて失神した。

「このお方は、ちょっと堅苦しいわ。目の前で狸や狐や付喪神、花の精とかが面白おかしく踊って見せたら、楽しそうにしてくれるかしら?」

突如現れて踊り狂いだした狐狸や付喪神、梅や梨の木の精を目の当たりにして、その貴公子は同じように踊り狂いだした。踊り狂いながら邸を出て行ってしまい、その後の消息は不明である。

ここまで来ると、貴公子どころか家人までもが逃げ出しそうなものである。……が、主が主なら家人も家人と言おうか。

女房のほとんどは、乳飲み子の頃から成長を見守ってきた、奇怪な力を生まれ持ってしまった哀れな我らが加夜姫から離れるのがしのびない、と暇を告げる機会を決めかねているうちに、ずるずると時を重ねてしまう。

下人や端女は、普段加夜と接する機会があまり無いため、被害を被る事もあまり無い。たまに巻き込まれる者もいるが、冷静になってみると危害を加えられるような事は無いものばかりであるため、せっかくの仕事を失ってまで暇を告げる者はそうそういない。

小舎人童や、まだ歳若い牛飼い童。彼らの場合は、親からこの邸に預けられているような場合もあって、己の意思で逃げ出す事ができない。半泣きになりながらも我慢して勤めている。

誰もかれもがそうしてずるずると仕えているうちに、慣れていく。そして、今に至る。

今晩の不破のように夢現関係無く苦手な物が現れた事によって大騒ぎをしてしまう事も時にはあるが、それも時が過ぎれば何事も無かったかのように落ち着いてしまう。慣れぬ他家の者から言わせれば、彼女らの慣れっぷりも、それはそれで化け物じみている。

そして、加夜が顕現させてしまった空想の産物を毎回何とかするのが、瓢谷隆善の役目である。

現在陰陽寮に勤めている朝廷陰陽師の彼と、加夜の付き合いはそこそこ長い。加夜が幼い頃から、何かを出して騒ぎを起こすと家人に呼び出されていた彼の陰陽師としての実力はまぁまぁ高いらしく、近頃は巷で評判になりつつもある。

現在歳は三十五との事だが、妻帯はしていない。通っている姫君も特にはいない。……が、自邸には何人かの弟子がいて、日々にぎやかに暮らしているという噂である。

昔からの習慣で、特に騒ぎを起こしていなくても、数日置きに加夜の邸を訪ねてくる。尋常ではない力を持つ加夜の心の状態を案じて様子を見に来ているように思われて、加夜は、それが嬉しい。

今では、隆善が折々通い、加夜も家人達も快くそれを迎え入れる……恋人同士といっても差し支えないほどの関係となっている。

「……それで? 一体どんな事を考えたら、蛍が部屋を埋め尽くすんだ?」

「それは……蛍が一匹、迷い込んできて……」

「迷い込んできて?」

問い返す隆善は、にやにやと楽しげに笑っている。こういう顔はいじわるだ、と加夜はいつも思う。

「それで、この部屋を埋め尽くすほどの蛍がいたら、その蛍も寂しくないし。私達も天の川の畔で機を織る織女星になったようで楽しいそうだと思ったら……」

「見渡す限り一面の蛍か。相変わらず、豪快なこった」

笑いながら、自然な手つきで加夜の肩を抱く。どきりと、加夜の心の臓が跳ね上がった。

躊躇いながらも、加夜は隆善の胸に頭をもたれ掛らせてみる。穏やかな心音が聞こえた。隆善は、この状況にそれほど緊張してはいないようだ。己だけが気を高揚させているこの状況を少しだけ不満に思って、加夜は微かに頬を膨らませた。

加夜の膨れっ面に気付いたのだろうか。隆善が、加夜の肩を抱く手に少しだけ力を籠めた。

……が、期待を胸にその顔を見上げてみれば、隆善の視線は加夜ではなく、やや上方に向かっている。口の端が歪んだ。

「……あ?」

常より低い声で、決して品があるとは言えぬ言葉を隆善は発した。目を丸くして、加夜は隆善の視線の先を追う。

夜闇の中、白い何かがふわふわと飛んでくるのが見えた。よく見ればそれは、鳥の形に折られた紙のようだ。これが話に聞く、式神、というものだろうか。

飛んできた式神を、隆善は無造作に掴む。掴まれた途端にそれはくたりとして、ただの紙で折られた鳥となってしまった。

それを隆善は、ためらい無く広げていく。どうやら、何か文字が書かれているようだ。ざっと目を通し、そしてぐしゃりと丸めた。

「りゅ……隆善様?」

「悪い、加夜」

加夜から身をはがすと、隆善は丸めた紙を懐に押し込んだ。顔は、かなり険しい。鬼かと見紛うほどに歪んでいる。

「鬼退治を任せた馬鹿弟子どもが、へましやがった。面倒臭ぇが、尻拭いぐらいはしてやらねぇとな」

「……そうね。お弟子様達が危ないのなら、行ってあげるべきだわ」

少しだけ項垂れた加夜を、隆善は痛ましげに見る。もう一度、肩を抱いた。

「場所は右京のはずれだ。今から行って、すぐに戻ってこれるような距離じゃねぇ。俺の事は待たずに、今日はもう寝ろ。……良いな?」

「……はい」

頷く加夜から離れ、隆善は踵を返す。

「……っとに、あの馬鹿弟子ども……! 明日は一日写経の刑にしてやる……」

ぶつぶつと呟きながら簀子縁に足を踏み出し、そこで思い付いたように振り向いた。

「そうだ、寝る時だがな。どうせお前の事だから、この後俺がどうするか、だとか、馬鹿弟子どもが退治に行った鬼はどんな奴か……だとか考えちまうんだろう?」

図星だったのだろう。加夜は、ばつが悪そうに肩をすくめた。隆善はため息をつき、懐から何枚かの符を取り出して手渡してくる。

「これを、部屋の何か所かに貼っておけ。効果は短いが、お前が現に生み出した物を片っ端から消してくれるはずだ。……まぁ、お前が寝入るまでの時を稼ぐくらいはできるだろう」

「時を稼ぐ?」

首を傾げた加夜に、隆善は頷いた。

「お前の力は、お前が夢を見るだけでも働いちまう。いつもならともかく、鬼を想像した後の夢が現になるのは、流石にやばい。なら、夢の中でお前の空想を打ち破る奴が必要だ。そうだろう?」

「え……えぇ……」

「俺の知り合いに、他人の夢に入って調伏するなんていう芸当ができそうな奴が一人いる。そいつに、話を付けておくから……今晩夢に、歳は俺と同じぐらいだが軟弱そうで腹黒そうで食えない笑みを顔に貼り付けている男が出てきたら、あとはそいつに丸投げしろ。良いな?」

言ってから、隆善は苛立った様子でため息を吐いた。

「本当は、俺がその役をやってやれりゃあ良いんだけどな。今から尻拭いに行って、邸に戻ってからじゃあ、とても間に合いそうにねぇ。それに、実力も足りてねぇ。でなきゃ、何であんな奴に……」

ひとしきりぶつぶつと呟いてから、今度こそ隆善は簀子縁を歩いていった。背中には怒気を纏っている。

隆善の弟子達と会った事は一度も無い。だが、隆善の様子と、先ほどの「一日写経の刑」という言葉に、加夜は思わず、顔も知らぬ弟子達の明日を案じた。

その直後、紙に写経をしながら庭を駆け巡る筆の付喪神が現れ、家中は一時騒然となった。加夜は慌てて、隆善に渡された符を貼った。












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