平安陰陽騒龍記


















現在見習い陰陽師として修行中の葵には、二人の師匠がいる。一人は、星の読み方から式神の飛ばし方、調伏の法まで陰陽の法ほぼ全てを教わっている、瓢谷隆善。現在の葵の、保護者のような存在でもある。

そしてもう一人が、これから会いに行こうとしている人物。姉弟子、紫苑の実父であり。隆善の昔からの友人でもあり。隆善曰く昔は大人しかったのに、ひょんな事から結構な性格になってしまった、陰陽師としての実力は折り紙つきで当世一であるだろうと思われる人物。惟幸。

葵は時折この惟幸を訪ねては、主に調伏の法を強化するべく教えを受けている。

何故調伏の法を強化する必要があるのかは、わからない。……が、隆善にも惟幸にも強くなるように言われ、特にやりたい事があるわけでもないのでとりあえず従っている。

「ま、葵は何かとトラブルに巻き込まれ易いタチみたいだからにゃ。強くにゃっておいて損は無いにゃ」

横をてとてとと歩きながら、葵の心を読んだかのように虎目が言う。……何故お前がここにいる。と言いたげな目で葵が虎目を見れば、彼ははぁっと溜息をついて見せた。

「あんにゃ感じでキレた紫苑は、手が付けられにゃいからにゃー。三十六計逃げるに如かず、にゃ。それよりも、葵」

とてとてと歩きながら見上げてくる虎目に、葵は視線を合わせる。すると、虎目は懐に前足を突っ込む仕草を見せた。

「にゃーんか、嫌にゃ予感がするにゃ。念のため、備えておいた方が良いかもしれにゃいにゃー」

「え、備えるって。何に……」

葵がその言葉を、最後まで言い終える事は無かった。遠くから、地響きが聞こえてくる。……いや、地響きは大袈裟かもしれない。慌ただしく、何かが走ってくる音が聞こえた。

「え、何!?」

ぎょっとして、目を見張る。京から少しだけ離れたとは言え、ここはイノシシが出るような場所でもない。では、この足音は……

「ふぉぉぉぉぉっ!!」

「いっ!?」

叫び声と共に、前方の茂みから、突如人が飛び出してきた。まっすぐに突っ込んでくるその人物を、葵は思わずひらりと避ける。その横では、虎目が何を考えてか赤い手巾を取り出し、それをひらひらと振りながらやはり避けている。

一人と一匹にひらりと避けられた人物は、そのまま勢い余って木に激突し、ずるずるとその場に倒れ込んだ。

「なっ……何だよ、今の……」

「……あー……嫌にゃ予感はこれだったか……」

目をぱちくりとさせる葵の横で、虎目はくはぁ……と深い深い溜息をついた。その視線の先には、木に激突して倒れた人物。烏帽子を被り、狩衣をまとっている。そして、その人物の後姿に、葵も見覚えがあった。

「……あ。ひょっとして……天津(あまつ)、栗麿(くりまろ)……?」

葵の声に、倒れ伏していた人物――栗麿はむくりと起き上がった。そして赤くなった鼻をさすりながら目の前にいる人物が誰かを確認する。……言っちゃ悪いが、この男、そこそこの醜男である。元は悪くないのだろうが、全体的に比較的肥えている。愛嬌があると言えばそうなのだが、緊迫感を感じさせる事の無い顔である。

「……おぉ。瓢谷のところの葵に、化け猫ではおじゃらぬか。奇遇でおじゃるなぁ。まさか、こんなところで出会うとは……」

「化け猫言うにゃ! 未来千里眼を持ち、未来を見通せるオイラに失礼にゃ! 何度言ったらわかるんにゃ!」

「何度でも言ってやるでおじゃるよ! どんな能力を持っていようが、化け猫は化け猫でおじゃる。この化け猫!」

「にゃにゃーっ!」

栗麿の言に、虎目が毛を逆立てる。この一人と一匹、生理的に合わぬのか、顔を合わせれば口げんかばかりをしている仲である。周りに被害が及ばぬので、誰も止めようとはしないのだが。

「あー……それで、栗麿? 今日は一体どうしたの? 何か慌ててるみたいだったけど」

とりあえず、このままではお使いに行こうにも行けない。虎目と栗麿を引き離すように、葵は一人と一匹の間に身体を割り込ませた。

「おぉ、そうでおじゃった! こうしてる場合ではないのでおじゃる! ……葵、化け猫。麿は逃げるでおじゃるから、後はよろしく頼むでおじゃる!」

「え、ちょっと栗麿!?」

よくわからないまま駆け出す栗麿に、葵は目を白黒とさせる事しかできない。そして、

「そうは問屋が卸すワケ無いにゃ、この馬鹿!」

「ぎょほぉっ!?」

駆け出そうとした足に虎目が二股の尾を引っ掛け、栗麿は盛大にすっ転んだ。防御の姿勢を取れぬまま倒れ込み、地面で顔面を強打する栗麿。しかし、鼻血は出ていない。強い。

「ふぉぉぉっ! 何するでおじゃるか! 何のつもりでおじゃるか、この化け猫っ!」

「それはこっちの台詞だにゃ! にゃにが、後はよろしく頼む、にゃ! おみゃー、今度は一体にゃにをやらかし……」

最後まで言い切る事無く、虎目は目を細めた。その様子に、葵もスッと緊張を覚える。緊張により感覚が研ぎ澄まされ、いつもなら聞こえない音まで聞こえてくる気がする。

遠くから、栗麿よりも更に大きな気配が近付いてくる。

「……来る……!」

息を呑むように呟き、葵は懐に手を突っ込んだ。素早い動きで護符を取り出し、眼前にかざす。

それと同時に、葵の真正面にあった茂みから大きく黒い影が飛び出した。影は大きく跳躍すると、真っ直ぐ葵に襲い掛かってくる。

「……っ!」

真っ直ぐに護符を見詰め、葵は強く「我が身を守れ」と念じる。すると護符がじんわりと温かくなり、薄らと清らかな光を放ち始める。

そして、バシン、と音がした。

黒い影が、葵の鼻先で宙に浮いている。……いや、浮いているわけではない。葵に襲いかかろうとはしているが、その動きを葵の手にある護符が防いでいる。

護符を持つ手に力を込めると、葵は護符を思い切り良く振り抜いた。すると黒い影は、まるで棒で殴られたかのように横へとすっ飛ぶ。地面に叩き付けられるかに思われたその直前、それはふわりと体勢を整えて危なげなく着地した。

その四足の背に一瞬、鮮やかな青が見えた気がした。

「……え?」

葵が目を丸くしていると、その隙を突くように黒い影はまたも大きく跳躍した。だが、今度は葵に襲い掛かってくるわけではない。くるりと葵に背を向けると、来た時と同じ速さで逃げ出した。その背には、やはり鮮やかな青色が見える。その青色が風にあおられはためく様は、どうも女物の着物のようで。

人だ。あの黒い影の背には、女が一人乗っている。それも、大きさからしてまだ幼さの抜けない少女だ。

「虎目! あれ……!」

影が逃げていった方角を指差し、伝える。葵が言わんとする事を悟った虎目は、目の前でだらしなく座り込んでいる栗麿を睨めつけた。

「……おい、そこの馬鹿。アレは一体どういう事だにゃ? おみゃー……今度は何をやらかした?」

虎目の追及に、栗麿は視線を逸らした。そして、両手の指をくるくると回しながら「えー、あー……」と言い淀んでいる。はっきり言おう。可愛くない。

「そのー、実はー……今、麿は、京に恋しいお方がいるのでおじゃる……」

「……それで? そのどこぞやの姫の気を引くために式神を作り出して。式神に姫を襲わせて。姫のピンチがクライマックスににゃったところで颯爽と現れたおみゃーが見事に姫を救い出す……という筋書きかにゃ? それで。作り出した式神が案の定おみゃーの言う事を聞かず、大暴走、と」

「お。化け猫、鋭いでおじゃるな」

嬉しそうに言う栗麿に、虎目はくはぁー……と深い深い溜息をついた。

「おみゃー……三年前のロリコン式神暴走事件でも同じようにゃ事しようとして、紫苑に散々にゃ目に遭わされてるじゃにゃーか。おみゃーが式神を作り出すと、ロクにゃ事ににゃらにゃいにゃ。いい加減に懲りろ!」

そう言って、虎目は視線を葵へと遣った。

「それで……どうするにゃ? 葵。あの馬鹿が作った式神だにゃ。大した事はできにゃいとは思うが……」

それまで吸い込まれたように影の行く先を目で追っていた葵は、虎目の声でハッとした。そして、力強く頷くと再び視線で影を追う。

「決まってるよ。助けに行く! このまま放っておくなんてできないよ!」

そして葵は、視線を真っ直ぐに虎目へと向けた。

「虎目……お願い! あの影がどこへ向かうか、未来を見て欲しいんだ。アレが最終的にどこへ行くのか……それがわかれば、あの子が危険な目に遭うのを、少しでも減らす事ができるよね?」






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