歴史小説アンソロジー「もっとあたらしい歴史教科書世界史C」寄稿作品

月落於五丈原(月、五丈原に落つ)








※字不詳のため、諸葛均の呼び名は諱である「均」を使用しています。








清浄な月の光が、暗い原を静かに照らす。そこかしこで、虫が鳴いている。

魏への北伐に挑む蜀軍が陣を構える五丈原は、秋の夜を迎えていた。

見張り以外の将兵が寝静まった陣中の、奥深く。灯りの漏れ出る天幕が一つ。丞相、諸葛孔明が寝所兼執務室としている天幕だ。

孔明が陣中で病を得、牀に臥すようになって最早久しい。それでも尚、朝に夕に陣中の指揮や丞相としての執務をこなしている彼の命数は、いつ尽きてしまってもおかしくない。

「丞相、お加減はいかがでございますか?」

天幕の中。簡素な牀の横に侍る目元の涼しげな男が、痛ましげに顔を歪め、問い掛けた。征西将軍の姜維だ。文武両道を誇り、目下孔明の後継者と見る者も少なくない、蜀国の将来を担うであろう人材だ。

「空気が冷たく澄むようになってきたからでしょうか。今日は、少し楽なようです」

牀の中から、孔明が弱々しい――しかし優しい声で言った。女のようにか細い声だ。

……いや、女のような、ではない。その声は、たしかに女の声だ。牀から伸びる皺だらけの手は、細い。枕の上の青白い顔には、髭が全く見当たらない。白髪交じりの赤茶けた髪も、男の物にしては柔らかそうな印象を受ける。

不意に、孔明が上体を起こし、咳き込んだ。口に当てた掌に、血が滲む。

「丞相! 今、医者を……」

「良いのです」

慌てて立ち上がり、天幕を出ようとする姜維の腕を、孔明は咄嗟に掴んだ。弱々しい力に腕を引かれ、姜維は躊躇いながらも牀の傍らに腰を低く落とし、侍り直す。

「自分の体の事は、自分が一番よく知っています。私はもう、長くはないでしょうが……今夜は、大丈夫。だから今は、あなたと話をしていたいのです」

「丞相……」

感極まった顔で、姜維が孔明の手を取った。孔明は、力無く笑う。

「思えば、あなたとの付き合いも随分と長くなりましたね、姜維……」

「はい。……南陽郡隆中の草蘆で無茶を申し上げてから、早三十四年……。本当に長い時間、貴女様には無理をさせてしまいました。丞相……いえ、月英様」

こうべを垂れる姜維に、孔明……否、諸葛孔明夫人、黄月英は優しく微笑んだ。





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建安五(二〇〇)年。荊州は南陽郡、隆中に結ばれた諸葛孔明の草蘆に、一人の若者が血相を変えて飛び込んできた。

「お尋ね申し上げます! ここは、諸葛孔明様のお宅で間違いございませんか!?」

必死の声に、諸葛孔明の妻、黄月英と、孔明の弟である諸葛均が奥から飛び出してくる。

「たしかに、ここの主人は諸葛亮で間違いございませんが……どちら様でしょうか?」

訝しげに尋ねる月英に、若者は全身を震わせながら外を指差した。歯が、がちがちと鳴っている。

「こっ……こ、こ……孔明様が、そこで倒れて……!」

「!」

月英と諸葛均は顔を見合わせ、若者と同様に血相を変えた。手にしていた笊や筆を放り投げ、外へと飛び出す。

「孔明様!」

「兄上!」

二人は若者に示された方角へと走る。そして、そこに倒れ伏す大柄な人物を見た。間違いない、草蘆の主、諸葛孔明だ。

「孔明様……孔明様!?」

月英が血の気の引いた顔で必死に呼びかけるが、孔明は応えない。とうに、事切れていた。

「そんな……」

呆然とする二人に、先ほどの若者が近寄ってきた。青褪めながらも痛ましげな顔で、声をかける。

「ひとまず……草蘆の中に運びましょう。それから……お話があります」

「……?」

若者の言葉に、目に涙を浮かべた月英と、悲愴な面持ちの諸葛均は顔を上げた。若者は、何やら難しそうな顔をして、月英の事を見ていた。





# # #





遺体を牀に寝かせ、三人は別室へと移る。月英と諸葛均は未だ呆然自失の体だが、それを気にしている時が惜しいと言わんばかりに、若者が話を切り出した。

「孔明様の死因は、首の骨を折った事にあるようです。犯人は……わかりません」

主の死が他殺である可能性を語られ、月英と諸葛均の視線が若者へと向く。若者は、首を横に振った。

「急いで犯人を捜したいところですが、その時間もございません。……諸葛均様、黄月英様……貴方がたは、近頃荊州の牧、劉景升様を頼り、新野に居を構えた劉玄徳という人物をご存知でしょうか?」

諸葛均が、頷いた。

「兄を臣下に迎えたいと、これまでに二度、この草蘆を訪ねておいでです。どちらも兄は外出中で、対面は叶いませんでしたが……」

ならば話が早い、と、若者は頷いた。

「その劉玄徳様が、もうすぐ、三度この草蘆を訪ねてきます。今度こそ孔明様を臣下に迎えたいと、この度も義弟の関雲長様、張益徳様を伴って」

「三度も……」

月英が、驚いた顔で呟いた。そして、すぐに暗い顔で首を振る。

「大変ありがたいお話ではございますが……当の孔明様が鬼籍に入られてしまったのでは……」

「それです」

とん、と、若者は卓子(つくえ)の隅を人差し指で叩いた。目は、真っ直ぐに月英の事を見ている。

「孔明様は密かに伏龍と称されたほどの、在野の賢人。本来であれば、今度こそ玄徳様に臣従し、これからの歴史を築いていくべきお方でした。天命も、そのように定まっていたはずです」

天――この世を形作り定めた、人知を超えた大いなる存在。それにより与えられる、一生を懸けてでも成し遂げるべき使命。それを、人は天命と呼ぶ。

人々は、其々に課せられた天命を果たすべく、日々を懸命に生きている。果たせなければ、それは即ち……何者も敵わない大いなる存在に従わなかった事になってしまう。

「この国の歴史に孔明様の名前が登場しないのは、天命に逆らう事になってしまう。……ひょっとしたら、天の怒りを買い、この荊州に大規模な凶事が訪れるやもしれません」

「な……」

「そんな……」

半信半疑ながら、月英と諸葛均の顔は更に青白くなった。若者は、語気を強めて言う。

「これを避けるためには、歴史に何としてでも孔明様に登場していただかなくてはいけません。そのためには、貴方がたの協力が必要不可欠です」

「え……?」

月英と諸葛均が顔を見合わせる。若者は、少しだけ悩む顔を見せた後、大きく息を吸い、吐いた。

「……月英様。孔明様から、三国鼎立の理想をお聞きになられた事は?」

「……ございます」

恐る恐る、月英は頷いた。生前、孔明が理想としていた、天下のあり方だ。

天下を一つの国が治める事無く、三つの国で三分する。三国がそれぞれの国を睨み合う事で、結果的に戦争は回避され、この中華の地は安定を得る事ができる。三本の足で安定して自立する、鼎のように。

「その話を聞き知っているのであれば、充分です」

若者は頷き、月英の目をまっすぐに見据えた。

「単刀直入に言います。月英様、これより男性の衣服を纏い、孔明様となって玄徳様にお仕えしてください。さすれば、天命に逆らう事を避ける事ができましょう」

「……!」

月英の目が、見開かれた。「何故……」という声が漏れる。

「孔明様ご本人がいないとなれば、代役を立てる他ありません。しかし、これは極秘中の極秘事項……軽々しく他人を頼る事ができない以上、代役を果たせる者は限られます。均様は既に玄徳様にお会いしている……顔を知られている以上、均様にお願いするわけには参りません」

「……あなたは……」

諸葛均が言い掛けると、若者は首を横に振った。

「駄目です。私は、孔明様のお人柄を知りません。人間とは、大きな違和感よりも小さな違和感を気にするもの。月英様が男装をなさり孔明様の代役をなさるのと、私が孔明様のお人柄を知らぬまま代役をする事。恐らく、玄徳様に不信感を抱かせてしまうのは後者でしょう」

「……私が孔明様の振りをして劉玄徳様にお仕えする事で、この乱れた世が落ち着くのですか?」

「完全には落ち着きません。ですが、この群雄割拠の時代は一応の終息を迎えるはずです」

若者の力強い口調に、月英はしばし考え込んだ。やがて、眦を上げると、はっきりとした声で言う。

「……わかりました。お言葉の通りに致しましょう」

「義姉上……?」

目を見開く諸葛均に、月英は視線を向けた。

「孔明様が歴史に姿を現さない事で世がこのまま乱れ続けるとあっては、放っておく事はできません。それに、孔明様が常々語っていらした、三国鼎立の理想……こんなに簡単に終わらせたくはありません」

そう言うと、月英は奥の部屋へと向かう。男装するため、孔明の衣服を取りに向かったのだ。

その時、表から孔明を訪ねる声が聞こえてくる。間一髪での、劉玄徳の到着だった。





# # #





「あの時は、本当に身が縮む思いをしたものです。玄徳様も、雲長様、益徳様も、皆様凄味のあるお方ばかりで……」

「しかも、準備のためにお待たせしている間に、孔明様の遺体を見られてしまったのでしたっけ?」

「そうなんです。痺れを切らした益徳様が裏手に回られて……幸い、顔は見られていなかったようで、昼寝と誤解されて事なきを得ました」

「それはそれは……」

傍らで苦笑する姜維に、月英は「笑い事ではありませんよ」と眦を少しだけ上げて見せた。

「準備を終えて戻ってみれば、あなたはいなくなっている。均様も、少し目を離した隙にあなたが消えてしまったと言う。玄徳様達に至っては、あなたがいた事自体をご存じ無い様子……。焚き付けたあなたがいなくなり、私は一人でどうしようかと……」

「ですが、それでも貴女様は立派に玄徳様に三国鼎立の理想を語られ、軍師としてお役目を果たされた。才媛、黄月英様だからこそ、成し得たのでしょう」

「……徐元直様、龐士元様が、事あるごとに手を貸してくださいました。それが無ければ……」

「そうか……孔明様と旧知のお二人には、掻い摘んで事情をお話ししたと仰られていましたね。特に徐元直様は、孔明様を玄徳様に紹介した張本人……伝えぬわけにはいかなかった……」

「えぇ。元直様は慣れぬ男社会に戸惑う私に、様々な助言を授けてくださいました。士元様は……」

「あの赤壁の大戦で、曹操に連環の計を提案してくれた。そのお陰で、曹操の船団は一気に燃え上がり、貴女様と呉の周瑜による火計は大成功を収めたのでしたね」

月英の言葉を引き取り、姜維は言った。月英は頷く。そして、「あなたも……」と呟いた。

「赤壁の時には、あなたも助けてくれましたね、姜維。八年も経っていたのに、初めて会った時と全く変わらない姿で私の前に現れて……大言を吐いた事を後悔する私を励ましてくれました」

「あぁ。貴女様が祈って、三日三晩のうちに風を吹かせてみせる……でしたか。たしかに、正気とは思えぬほどのお言葉でした。大胆な事を仰るお方だと、感心したものです」

「地元の人々から聞いた話で、あの時期に東南の風が吹く時がある事はわかっていました。ですが、都合よく近日中に吹くとは限らない……」

「それで、壇上に上がろうとする頃には真っ青な顔になっていたんでしたね」

からかうような姜維の口調に、月英は苦笑した。

「そんな私に、あなたは言いました。何故、神子には女性が多いのか。それは、女性の肉体は空の器のような物だから、だと」

「たしかに、言いました。器である女性に、力の源である男の精が入る事で、男が生まれる。ならば、力を持たぬ女性は、器の内に別の物を容れる余裕がある。それは例えば、神霊のような……」

月英は、頷いた。

「神霊は、己を容れる事ができる者を愛する。だから、あの赤壁の戦場で唯一、神霊を容れる余裕を持つ女性である私に、天は必ずや味方するだろう。だから、恐れる事は無い。……あの言葉で、私は壇上に登る事ができたのです。なのに、東南の風が吹いて、壇を降りてお礼を言おうと思ったら、あなたはまたもや、どこかに消えてしまっていた……」

「急用を思い出しましてね」

「また、そのような事を……」

ため息をつき、月英は天幕の天井を仰いだ。

「結局……その時もあなたは、私以外の誰にも見られる事無く、姿を消した。その後は、どれほど厳しい戦いになろうともあなたが現れる事は無く、もう二度と会う事は無いのだろうと思っていましたのに。……まさか、赤壁から二十年も経ってから再会する事になるとは……。それも、魏の将軍として。これは何の間違いだろうかと、己の目と頭を疑いました」

「やむを得ない事情がありまして」

はぐらかそうとする姜維の態度に、月英は諦めたように首を力無く振った。

「……もう良いです。そういう事にしておきましょう。それにしても、姜維……あなたは神仙か何かなのですか? あなたが現れるのは、いつも八年や二十年と、かなりの時を経た後でした。だというのに、いつも姿が変わらない……。女として、羨ましい限りです」

「神仙だなど、恐れ多い。私は、どこにでもいる、何の変哲も無い人間ですよ。その証拠に、ほら。貴女様に降伏し、蜀将となって六年……少しずつですが、私も老けてきたでしょう?」

出会った時は二十代半ばのどこか頼りなさそうな若者という風貌であったが、今では相応に年を取り、逞しく日に焼けた壮年の顔になりつつある。少なくとも、蜀に従い、従軍するようになってからは着実に年を重ねている。

それを示してから、姜維は申し訳なさそうに俯いた。

「私が無茶なお願いをしたせいで、貴女様は女性としての人生を完全に失ってしまいました……。しかも、不美人などと噂される不名誉まで……」

「仕方がありません。諸葛孔明と黄月英が同一人物であるとわからぬよう、月英として人前に出る時には厚く化粧をしておりましたから。それに、戦場を駆け巡った事で肌や髪は日に焼け、肉は落ちて体も引き締まりました。男性から見れば、さぞや見るに堪えない女となっていた事でしょう」

「そんな事は……」

無い、と言おうとする口を、月英は右手を挙げて制した。気にするな、と言うように、優しい笑顔を浮かべている。

「たしかに、傍から見れば、女としては捗々しくない人生だったかもしれません。ですが、そのお陰で私は、危うく潰えるところであった孔明様の理想を、半ば実現化する事ができました。妻として、これ以上の功がありましょうか?」

「月英様……」

月英は手を下ろし、「それに……」と呟いた。

「女としての人生、失ってなどはいませんよ。それも、姜維……あなたのお陰です。あなたの使った不思議な術のお陰で、私は瞻(せん)や懐……孔明様の血を引く子ども達を授かり、時を見て母となる事ができました。腹を痛める事こそありませんでしたが……それでも、あの子達の目を見れば、孔明様と私の子であると、はっきりとわかります。子を生し、育てておきながら、女の人生を失ったなどとは言えません」

そう言ってから、月英は「いいえ」と緩く首を振った。「それどころか……」と、少しだけ頬を赤らめる。表情に、興奮が見て取れた。

「男の人生と、女の人生……どちらをも同時に経験できるなど……私ほど贅沢な生を歩んできた者が、他にありましょうか? このような人生を歩めて、私は幸せ者です」

その言葉に、姜維ははっと目を見開いた。姜維を見詰める月英の顔は、興奮こそ収まったものの、優しい笑みを浮かべている。その笑みが、その言葉が本心である事を示していた。

「……ありがとうございます、月英様……」

詰まったような声で言い、姜維は不意に、頭を深く下げた。

「……姜維?」

不思議そうな顔をする月英に、姜維はこうべを垂れたままだ。姜維を取り巻く空気が、どこか湿っぽい。

「……随分と、長く話し込んでしまいましたね。姜維、私は大丈夫ですから。あなたも休んでください。今、あなたまで倒れてしまったら、軍の更なる混乱は避けられません」

優しく言われ、姜維はこうべを垂れたまま拱手する。そして数歩下がると立ち上がり、そのまま天幕の出入り口へと向かった。

その後ろ姿を、月英は優しい眼差しで見送る。姜維は天幕の外へ消え、代わりに冷えた秋風が、幕内へと滑り込んできた。





# # #





月英……いや、孔明の天幕を後にした姜維は、陣のはずれに佇み、空を見上げた。満天の星々の内、己の宿星だといつの日か月英が語った星の光だけが弱々しい。

星々が滲んで見え、姜維は再びこうべを垂れる。ぽたりと、彼の目から涙がこぼれた。涙は地に落ち、五丈原の夜露となる。

俯く姜維の懐から、突如、ぶぶぶぶぶ……と、蠅の羽音のような音が聞こえてきた。はっと我に返った姜維は、辺りに誰もいない事を確かめると、懐をまさぐる。

姜維が取り出したのは、銀色に輝く、掌よりも小さく、紙のように薄い板だ。何でできているのかはわからない。

その板を、姜維は右手で持ち、その親指で何度か撫でる。すると、その板の真上に青白い、陽炎のような板が現れる。そこに、白い文字が浮かび上がった。

中原の文字だけでなく、他国の文字らしき物まで並んでいるそれに、姜維は素早く目を通す。己に言い聞かせるように、口に出して読んだ。

「逮捕令状……。時空を超え、歴史上の重要な人物、諸葛亮孔明と、姜維伯約(はくやく)を殺害した罪で……ただちに、西暦三〇一五年の現代へ戻る事を要求する。従わぬ場合は……」

そこで、姜維は読むのを止めた。右手の親指で銀の板をもう一度撫でる。陽炎のような青白い板は、音も立てずに消えた。

姜維は、銀の板を掴んだまま、右腕をだらりと下ろす。両の手が、強く握られた。

「何が、逮捕令状だ……。俺はちゃんと、こうやって……自分で狂わせちまった歴史を、狂わないように修正してるじゃないか……!」

これまでとまるで違う口調で、姜維は吐き出した。握りしめた拳は、小刻みに震えている。握った拍子に、何らかの力が加わったのか。銀色の板から、再び青白い陽炎のような板が現れる。銀色の板は、甲高い、頭に響くような音……否、声を発した。

『メールノ読上ゲ機能ヲ展開シマス』

ぶつ切れの、抑揚の無い声が「逮捕令状」「殺害した罪」「西暦三〇一五年」などと、先ほど姜維の発した単語を発し始める。

『……ヨッテ、タダチニ現代ヘ戻リ、以下ノ質問ニ答エルベシ。一ツ。ドノヨウナ目的デ、過去ヘ行ッタノカ』

「俺をこの時代に送り込んだのは、国じゃないか。偉大な歴史人物の遺伝子……できれば精子や卵子を集めてこいって……」

『二ツ。何故、諸葛亮孔明ヲ殺害シタノカ』

「ちょっとしくじっただけじゃないか……。便利で安全な機械が無い時代なんだ。木から落ちる事くらいあるさ。たまたまその下を、諸葛孔明が歩いていて……たまたまその衝撃で首の骨が折れた……少しくらい配慮してくれたって良いじゃないか……!」

右手の中で、銀色の板が、みしり、と音を立てた。同時に、ざざざ……という、笊の中で豆を転がした時のような音が発せられる。だが、姜維は板を握る手を緩めない。

「逮捕をしようと考える前に、歴史の修正を考えろよ。俺は……俺は頑張ったんだぞ。黄月英様を、諸葛孔明の代役に立てて。赤壁で励まして……。何度も現代に戻って、歴史を事細かに調べたんだ。車に乗る事、帽子を被る事で、身長を大きく錯覚させるように入れ知恵もした……」

悔しそうに項垂れ、そして「それだけじゃない」と呟く。その声は、酷く暗い。

「死んだ孔明から急いで採取した精子と、月英様から採取させて頂いた卵子、それに体外受精の技術と下女の腹を使って、諸葛瞻達、子孫もちゃんと誕生させた。何もかも、史書の通りに、歴史が狂わないように、努力してきたんだ!」

『三ツ。歴史上ノ文書ニ手ヲ加エ、偽造シタノハ何故カ』

「……そりゃ、食い違ってしまう部分だってあるから、多少文書を偽造したりはしたが……それだって、三〇一五年の現代に伝わってる歴史を欠片たりとも変えさせないためじゃないか……」

溢れ出てくる不満は、止まらない。吐いても吐いても、喉の奥から湧き上がってくる。

銀の板は、更にみしみしと激しい音を立てる。びしり、とひびが入った。

『四ツ。何故、姜維伯、約ヲ殺ガ、イシタノ、カ……』

「それだって、不可抗力だよ。賊と間違えられて、斬られそうになって……防衛装置が発動しちまったんだ。これを持たせたのは、国じゃないか……。何で俺だけのせいになるんだよ。こうして過去に留まって、自ら姜維の代役もやってるんだぞ……!」

ばきっという音がして、銀の板が遂に割れた。青白い陽炎の板は消え失せ、途切れ途切れになっていた声も途絶える。最後に、ぶつっという縄を引き千切るような音が聞こえた。

姜維は、己の手から血が流れるのも構わずに、板の破片を握り締める。割れた板が、更に細かくなった。

「くそっ! あのタイムマシン! 何で一度行った時間より前に行けないんだ! 何で過去の自分のところへ行けないんだ! 何で自分の失敗をやり直させてくれないんだよ!」

粉々に砕けた銀の板を地に投げ付け、足で何度も踏み付ける。終いには、摘み上げる事すらできぬほどになってしまった。

「……何が、従わぬ場合は、だ」

低い声で、姜維は呟いた。その目にはもう涙は無く、血走っている。

血走った目で、天を仰ぎ見た。相変わらず星は満天で、月英の宿星は光が弱々しい。

す、と姜維の目が静かになった。眦が、哀しげに下がり、その後上がる。

「俺は……帰らないぞ。二度とタイムスリップはしない。月英様に……蜀の丞相、諸葛孔明に従い……蜀国を守り続ける! 彼女が目指した物を、彼女が必死に生み育て、守ってきた物を……失わせるものか! 俺は蜀の征西将軍、姜維だ。俺の命がある限り、蜀の国を守って見せる! 何があろうとも、例え歴史が狂う事になろうとも、絶対に……!」

星空に誓うと、姜維は素早く歩き出した。

秋風吹き渡る夜の五丈原に、虫の音が響く。後には、清浄な月華が、静かに降り注ぐばかりである。

この数日後、五丈原は、蜀将兵の嘆きで満たされた。



蜀の建興十二(二三四)年、蜀国丞相 諸葛孔明、五丈原の陣中にて病没。



そして、その約三十年後の、蜀の炎興元(二六三)年。蜀の国は、魏国の手によって、滅ぼされる。国を守りきれなかった将兵は、剣を岩で叩き折り、涙した。その中には、孔明の理想を実現しようと邁進した、あの姜維の姿もあったという。



魏の景元五(二六四)年、蜀国大将軍 姜伯約、蜀国内にて、魏兵の手にかかり、没。
















(了)












司馬懿サイド

劉禅・諸葛瞻サイド













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