ガラス越しの逢瀬












 重たいバケツを両手に提げて、僕は海から浜に上った。海水の重みに負ける事も無く、しっかりとした足取りで木陰に敷いたビニールシートへと向かい、バケツを下ろす。

 ビニールシートの上には、クーラーボックス。ただし、中に入っているのはビールでもジュースでもない。飲食物ですら無い。ただ、海辺にあっても不自然ではなく、頑丈で、持ち運びやすい。それだけの理由で選んだ物だ。

 開けて、中からスポイトと、いくつもの試験管、それと試験管キャップを取り出す。そして、スポイトを使ってバケツの海水を全ての試験管に注ぎ込み始めた。

 海水を注ぎ込んだ試験管にキャップをはめて、クーラーボックスにしまう。ここで観察するには、太陽光が強過ぎる。それに、時間も無い。今は、採取だけ。観察や実験は、夜、部屋に戻ってからだ。

 スポイトで水を吸い上げ、試験管に注ぎ、蓋をする。何度その作業を繰り返した事だろう。単調な作業の繰り返しに疲れたのか、彼女に逢いたくなった。

 そこで僕は、試験管やスポイトといった道具を全てクーラーボックスにしまう。代わりに、中から顕微鏡……それから、プレパラートが一枚だけ入っているプラスチックのケースを取り出した。プラスチックケースの中には仕切り板や梱包材をこれでもかと言うほど詰めてあり、できる限りプレパラートに衝撃を与えないようにしてある。

 プレパラートを顕微鏡にセットし、直射日光の当たらない場所で覗き込む。そこに見えた細胞片に、僕は思わず顔を綻ばせた。





  ◆





 本当に、どうしてこんな事になってしまったんだろう?

 数年前、突如モンスターが出現し、あっという間に世界中に広まった。誰もが混乱している中、当たり前と言うかのように現れたんだ。いわゆる、魔王、というやつが。

 魔王が現れたのであれば、いわゆる勇者も現れるのは割と簡単に予測できた事で。世界中の人々から希望を託された勇者は魔王を倒す旅に出て、各地で仲間を増やし、着実に力を付けていった。

 そんな勇者の一行に魔法使い兼学者として加わったのが、僕だ。学者といっても大学院を出たばかりだし、魔法というのもモンスターが現れた頃に急に使えるようになった付け焼刃程度のものだけど。

 勇者の一行に加わったのも、成り行きに任せた結果だ。それでも、旅は楽しかったし、勇者達と共に戦ったり謎を解いたりする事で、僕自身も見違えるほど成長できたと思う。それに……この旅のお陰で、僕は彼女と出会う事ができた。

 治癒魔法を得意とする彼女は、その魔法のイメージを壊す事の無い優しい人柄で、僕はどんどん惹かれていった。幸い、彼女も僕の事を気にしてくれるようになって……いつしか僕達は、恋人同士になっていたんだ。

 本当に嬉しかった。彼女と笑いあう事ができて。僕達の事を、周りも祝福してくれて。本当に楽しかった。

 だけど、その嬉しくて楽しい時は、ある日突然、終焉を迎えてしまう。

 相手の放った魔法から僕をかばい、彼女は姿を消してしまったんだ。

 ……いや、消えたというのは、語弊があるか。

 その魔法とは、喰らった相手を細胞レベルに分解してしまうという恐ろしい魔法だった。その事自体は知っていたはずなのに、いわゆるレベルが足りなくて……対処しきれなかった。結果、彼女は分解されてしまった。

 僕は死に物狂いで彼女を守ろうとしたけど……伸ばした手は、空を掴んだ。そして、辛うじて僕の手元に残ったのは、顕微鏡が無ければ見る事もできない程の細胞片。今、プレパラートの中にある、それだ。

 僕が魔法使いでなければ、僕が彼女の気配に気付かなければ、細胞片が残っている事にすら気付けなかったかもしれない。これは、不幸中の幸いだったと思う。

 細胞片だけでも残っているのであれば、彼女の肉体を復元できるかもしれない。彼女を取り戻せるかもしれない。そう思った僕は勇者一行から離れ、彼女を取り戻す研究に没頭する事にした。





  ◆





 人間の体は、半分以上が水でできている。そして、人間の祖先を遡っていくと、最後は海にいきつく。だから、各地の海水を調べる事で、彼女の肉体を復元するためのヒントを得る事ができるのではないだろうか。そう考えて、僕は各地の海を転々としている。

「おーい、ユウ! そろそろ休憩時間が終わるぞ! それ、宿にしまってこい! 大切な物なんだろ?」

「あ、はい!」

 声をかけられ、僕は慌ててプレパラートを元のプラスチックケースにしまい、顕微鏡と共にクーラーボックスに収めた。そして、宿の部屋に安置すべく、足を急がせる。

 僕は今、海の家でアルバイトに勤しんでいる。なんでかって? 理由は、二つある。

 まず第一に、夏の海の家でアルバイトをすれば、海水の採取をしつつ、金銭を稼ぐ事ができる。研究をするにも金銭は必要なわけで、そう考えるとこのアルバイトはうってつけだ。

 海水浴客の相手が主であるこのアルバイトは暗くなれば自然と仕事は無くなり解放されるわけで、残業に研究を邪魔される事もほとんど無いし。それに、就労期間中は宿とまかないを用意してくれる海の家を選んだので、衣食住のうちの食と住を確保する事ができる。

 そして、第二の理由。第一の理由でも少しだけ触れたけど、今の僕は、とにかく金銭を稼ぐ必要がある。実験道具を揃える事もそうなのだけど、それ以上に旅費が必要なんだ。

 何しろ、世界中にはいくつもの海がある。元は一つといっても、場所によって水質が違う。研究のためにはできる限り多くの海水サンプルが欲しい。特に、古代の水質に近いであろう、水の綺麗な海の物が。

 だけど、様々な海へ出向くには旅費がかかる。古代に近い水質を保っているであろう場所などは交通手段も限られているだろうから、値段も高い。

 勇者と旅をしている時なら、魔王を倒すためならば、という理由で世界中どの交通機関もフリーパスだったのだけど、勇者一行から離脱してしまった今は、そうはいかない。どこへ行くにも、自腹を切る必要がある。

 だから僕は、こうして慣れない海の家で働いている。毎日夏の日差しを浴びながら、力仕事もこなしてきたからだろうか。もやしのようだった僕の体格は、いつの間にか日に焼けて筋肉がつき、たくましくなっている。

 今の僕を彼女が見たら、一体どんな顔をするだろうか?

 驚くだろうか? 笑うだろうか? ……どんな顔でも良い。再び、彼女の顔を見る事ができるのなら。

 そのためにも、絶対にこの研究をやり抜いてみせる。そう、決意を新たにして、僕は歩を進める。

 いつか再び。カバーガラス越しではない逢瀬を願い、僕はただ、夏の海岸を歩き続けた。











(了)










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