葦原神祇譚







20








瑛の言葉通り、黄泉国の奥へ進めば進むほど、ぬめりとした何かは濃厚になっていった。目には見えないし、手で触れる事も音が聞こえる事も無いが……それでも感じる。黒くて、粘っこくて、湿っぽくて、重くて、冷たくて、ぐじゅぐじゅと不快な音を立てるそれは、黄泉国中に蔓延しているようだった。

「私はこれから、造化三神の気を引く為に広場へ行く。……天宇受売の居所は伊弉諾――ウミから聞いているな?」

頷き、仁優は瑛に背を向ける。背後で、瑛も仁優に背を向けたのが気配でわかった。各々が、各々の目的の為に走り出す。

一人になってまず感じたのは、この国に満ちている闇は想像以上に暗いものだという事。所々に篝火があるのに、その光はそこに篝火がある事しか教えてくれない。

目を凝らせば、辺りに何があるのか、どのような建物が建っているのかもわかる。だが、それは見えても一瞬でまた闇に隠れてしまう。あの不快な、ぬめりとした何かはかなりの濃度のようだ。瑛が何の問題も無く動けているのは、やはり天神の力と、前世の記憶と、慣れによるものなのか。

それとも、この不快な何かは、仁優の不安によって増幅されているのか。ひょっとしたら、実際はそれほど濃いものではないのかもしれない。

やがて、不快なそれが立てるぐじゅぐじゅとした音は、はっきりとした形を持ち始めた。音から言葉へと変じたそれは、耳の穴から仁優の体内へ入り込もうとするかのように耳元で唸り、嘲笑うかのように脳に直接響いてくる。

「何でこンな事しテるんだロうなー、俺。瑛なんカに捕まらなケりゃ、今頃いツも通り、大学行ッて、バイトしテ……平和な時間ヲ過ごしシてたっテのによ」

不安を煽るようなイントネーションのそれは、次から次へと湧いてくる。

「黄泉国っテ、マジで薄暗クて汚ぇノな。瑛とイい、ウミやライ、メノといイ……こんナ場所で暮ラしていケる奴らノ気が知れネぇや。俺だっタら、例え不老ノ綺麗な姿で蘇ッてモ、こンな場所で暮らスのはご免ダね。それナら、サっさと死んデ転生しタ方が何万倍も良イや」

「……けど、瑛達には瑛達の事情があったんだろ。それに、いくら痛みを感じなくても、やっぱり死ぬってのは怖いんじゃねぇのか? 転生して、どんな人間になるのかもわかんねぇし。こんな見た目や人生になるなら、転生なんかしなきゃ良かったとか思うかもしれねぇし……」

「あーアー、面倒臭ェ。一々事情だノ心情ダの考えテられッかよ。大体、死んダ奴蘇らセて、もウ一度死ぬヨうにすルって、どンな嫌がラせだよ? どんナ事情があレば、ソんな事すル必然性が生まレるってンだ? 結局は、瑛の独りよガりじゃネぇか」

「それは……そうかもしれねぇけど……」

言い淀んだ。その時を待っていたかのように、不快な声は嬉しげに言う。

「奴ラ、みぃンなわがマまなんダよ。瑛がおかシなシステムさえ作らなケりゃ、そもソも造化三神は黄泉へ攻め入っタりはしなカった。ウミが最初っカら造化三神を裏切ッて葦原師団に付いてリゃ、オロシや夜末ガ無駄に傷付く事モ無かった。メノが黄泉へ駆け戻っタりしなケりゃ、俺は今、黄泉なンかに来チゃいねぇ」

「……」

「まズ、何で葦原中国を滅ぼシちゃいけネぇんだ? 今の葦原中国は、決しテ全ての人間ガ幸せに暮らしテる世界なんかジゃねェぞ。それどコろか、不幸な奴ガ多いくらイだ。ナら、造化三神に滅ボさせて、一から創り直シた方が、幸せになれル奴は増エるんじャねぇノか?」

「けど……それをやったら、何とか幸せになってやろうともがいてる人間の努力を全部無駄にする事になる……」

何とか喋り、反抗を試みる。だが、自分の言葉に自信が持てない。本当に、何故自分がこんな事をしなければいけないのだろう、という思い。このまま滅ぼされた方が、結果的には良くなるのだろうか、という思い。自信の無さから生まれる疑問が、騒がしく脳内で暴れている。

「……っテか、何で俺、メノの為に黄泉国なンか来てんダ? 前世で夫婦っツったッて、今は全ク赤の他人じャねぇカ。そレを、何で造化三神ト瑛が戦うのニ巻き込マれたりシねぇヨうに黄泉まデ出向かナきゃいけネぇわケ?」

「それは……」

「可愛いかラ? 悲しマせちまッたカら? どンな理由があレば、ぶッ壊れるリスク背負ってマで黄泉国まデ来ヨうなんザ考えラれるんだ?」

「それは……!」

「なンかよォ、腹立たシくなるヨな? 女一人のたメに振り回サれてるミてぇデよ。憎シみすら湧イてくらァ」

「そんな事は……!」

「まさか……猿田彦様!?」

その声に、仁優はハッとして面を上げた。いつの間にか、目的地へと着いていたらしい。篝火で照らされた目の前には、驚きの表情を隠せないでいるメノがいる。

「何故……何故ここに……?」

「それは……あの……」

「わザワさ迎えニ来てやッたンだよ。……ったク、こんナところまデ来させやガって……この上、まだ何かうダうだ言ウんじゃねェだろウな? こレ以上俺の手ヲ煩わセるようナら、ぶっ殺スぞ」

不快な声が、脳にガンガンと響いてくる。黄泉の奥地だからだろうか、その声はどんどん強くなっている。まるで、その声が自分の本音だと錯覚しそうなほどに。ともすれば、本当に眼前のメノを手にかけてしまいそうだ。

「……猿田彦様?」

不安そうに、メノが顔を覗き込んでくる。思わず仁優は、目を逸らした。鏡は無いが、今の自分は酷く虚ろで生気の無い顔をしている気がする。そんな顔を、見せたくない。

だが、何と言えば良いのか……言葉が見付からない。……いや、今喋ってはいけない気がする。今喋れば、きっと自分はあの不快な声に影響され、多かれ少なかれメノの事を傷付ける。

顔でも声でも喋れない。それを悟った仁優は、思わずメノを抱き締めた。

「……! 猿田彦、様……?」

何故そんな行動を取ろうと思ったのかは、わからない。身体が、勝手に動いたんだと。そう言いそうになった。

だが、仁優はその言葉を呑み込んだ。メノを抱き締めているうちに、その理由が何となくわかってきたから。

温かくはない。良い香りがするわけでもない。だが、薄らと聞こえてくるメノの心臓の鼓動と息遣いを感じているうちに、次第に仁優は落ち着いてきた。頭の血が下がり、次第に冷静になっていくのがわかる。

「……迎えに、来たんだ……」

恐る恐る、仁優は口を開いた。

「迎えに……私を、ですか?」

抱き締められたままのメノが、目を見開く。抱き締めたまま、仁優は頷いた。

「……瑛が、もうすぐ広場の辺りで騒ぎを起こす事になってるんだ。そこに造化三神が怒って出てくれば、まず間違い無く、黄泉国中が争いに巻き込まれる。……そうなったら、メノが危ねぇと思ったんだ。だから、俺……」

「猿田彦様……私の身を案じて?」

「……もしメノに何かあったら、俺達はきっと二度と会えなくなっちまう。……それは嫌だったんだ。……メノには、絶対にもう一度会いたいって思ってたから……」

「……っ!」

メノが両手で顔を覆った。驚き、仁優が覗き込んでみると、指の隙間からぽろぽろと涙がこぼれ出ている。

「ごっ……ごめん! 嫌だよな……前世の事を覚えてもいない奴にそんな事言われても、わけわかんねぇだろうし……」

「いいえ……嬉しゅうございます」

涙を指で拭いとりながら、メノが面を上げた。潤んだ瞳に、仁優は思わずドキリとする。

「記憶を失ってしまっている猿田彦様が、それでも私に逢いたいと願い、私の身を案じ、私を迎えに来てくれた……。メノは、嬉しくて仕方がありません。嬉しくて、嬉しくて……それなのに、涙が溢れてきてしまうのです」

そう言うメノの顔は、牡丹の花のような華やかな笑みを湛えていた。その顔を見て、仁優は「あぁ、そうか」と呟く。

「俺、メノの笑顔が見たかったんだ……」

「えっ……」

メノの頬が、紅に染まる。

「悲しそうにしてる以外の顔、やっと見れた。……黄泉まで来た甲斐があったよ」

言ってから、自分の言葉を脳内で反芻し、仁優は照れて頭を掻いた。

「……で、さ。メノさえ良ければ、俺と一緒に来て欲しいんだけどさ……その……葦原中国へ」

一時と間を持たず、メノは頷いた。異論があろうはずが無い、という顔だ。

「そ、そっか。じゃあ、急いで準備をしてくれねぇか? 大切な物とか、着替えとか……」

「持ち出す物など、何もございません。猿田彦様とご一緒できるのであれば、他は何も……私はこの身一つで参ります」

言われた仁優の方が照れ臭くなってしまう。だが、メノの目は真剣だ。

「そうか。……じゃあ、早いトコ……」

言いかけたところで、仁優とメノはほぼ同時に、ハッと顔を引き締めた。どこからか、喧騒が聞こえてくる。そして、爆発のような音も。

「これは……広場から?」

「……瑛か」

言うや、仁優とメノは頷き合い、そして走り出した。決して離れぬよう、互いの手をしっかりと握って。





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