葦原神祇譚






16







鬨の声が聞こえた気がして、伊弉冉尊はハッと宮殿の外を見た。篝火だけが視覚の頼りとなる暗闇の中に何かを発見するより早く、バタバタと慌ただしい足音が近付いてくる。

「伊弉冉様っ!」

「何事だ、騒々しい!」

一喝され、駆け込んできた兵士は思わず居住まいを正した。その数秒の間に、今度ははっきりと、ワァァァ……という鬨の声が聞こえてきた。

何者かが、黄泉国に攻め込んできた。

一瞬、反乱、という可能性も考えたが、伊弉冉はすぐにその考えを打ち払う。自分は黄泉の女王という事になってはいるが、黄泉に住まう者達に対して特に何かを課しているわけでもない。

黄泉には葦原中国とは違い、税も労役も無い。収まらない揉め事の発生や、侵入者に備えて徴兵は行っているが、それとてただ宮殿の周辺や国内の道々をぐるぐると歩き回るだけだ。

反乱が起こるほどの不満が溜まり得る要素は、どこにも無い。

「……侵入者か。わざわざこの常闇の世界に攻め込むとは……どこの馬鹿だ?」

「そっ……それが……」

兵士が困惑した顔で口を開き掛けた瞬間、突如辺りは眩い光に照らされた。

「……っ!?」

数千年ぶりに見る強烈な光に、伊弉冉も、兵士も、咄嗟に腕で目を庇った。

「この光は……高天原の……!?」

「はい……」

呆然と呟く伊弉冉に、兵士は項垂れながら肯定した。

「敵は、天神を中心とした高天原軍数万。伝わった情報によれば、敵軍には天之御中主神様、高御産巣日神様、神産巣日神様のお姿が。それに……」

兵士は、言い難そうに言葉を一旦切った。

「伊弉諾尊様のお姿も……」

「伊弉諾の……?」

報告に、伊弉冉は眉を顰めた。数千年前に袂を分かった、最愛の夫。醜く変貌してしまった伊弉冉の姿を見て、恐れ逃げ出してしまった憎き夫。

あの時の事が心の奥底から悔しかった。だからこそ、伊弉冉は心血を注ぎ死者が生者と同様の姿を保てるようにした。身体は冷たく、痛みを感じず、致命傷を負わない限りは老いる事も死ぬ事もない。飲食はできるが、特に飢えや渇えを感じる事も無い。生きているとは言い難いが、生きていた時の姿を保てるだけでも努力した甲斐はあったと思う。今、伊弉冉の腹から蛆は湧いていない。

その努力の原因たる伊弉諾尊が、すぐ近くまで来ている。一体何故? 伊弉冉の……黄泉族の姿を恐れて黄泉国から逃げ出した者が、何故黄泉国に来る? それも、大勢の天神を率いて、造化三神まで連れて、軍を編んで来るなど……。

「黄泉国ができてから、最早数千年とも数万年とも言われています。確かに、一部の者が葦原中国や高天原にちょっかいを出した事もありましたが、それが理由で天神達が黄泉国まで攻め込んでくる事は無かったのに、何故今更……」

うろたえる兵士に、伊弉冉は「詮索は後だ」と強い口調で言った。

「伊弉諾や造化三神の真意はわからないが、攻め込まれた以上は迎え撃つしか無い。皆、剣を取れ。それから、八岐大蛇を連れてくるんだ。アレは戦力になるからな。……我らの平穏を脅かす天神達を、我らの仲間に迎え入れてやろうじゃないか」

言うや、伊弉冉は銀の剣を抜き放ち、自ら戦場へと躍り出た。総大将のいきなりの登場に、敵も味方も関係無く兵達は色めき立つ。

伊弉冉は戦陣の最前列へ出ると、そのまま躊躇いも無く銀の剣を閃かせた。あっという間に高天原軍の兵士数人が斬られ、その場に倒れ伏す。そして、倒れたかと思うとすぐにムクリと起き上がった。

「あれ……俺、何を……」

「確か、伊弉冉尊に斬られて……」

起き上がった兵士は、しばし考え、やがてハッとし、顔を引き攣らせると、ペタペタと自分の顔に触ってみる。自らの肌が冷たい事、斬られた筈の場所に痛みを感じない事に気付いたのだろう。自らが死に、黄泉族となった事を悟った彼らは、皆一様に顔を青くする。

だが、更に時が経つにつれ、彼らは妙な顔をし始めた。不味くも美味くもない、微妙な味の食べ物を口にした時のような……そんな顔だ。そして腕組みをして何かを考え、やがて隣の同じように黄泉族化した仲間と顔を見合わせると、互いにうん、と頷いた。

彼らは剣を取ると、少々申し訳無さそうな顔をしながらも、高天原軍には戻らず、黄泉軍への加勢をし始める。

逆に、高天原軍に斬られた黄泉族は身体が崩れ、そのまま光と化し、霧散していく。魂が、人間へと転生するために葦原中国に向かったのだろう。

こうして、黄泉族は減りはするが、高天原軍から兵の補充がある為に、中々数は減らない。それとは反対に、高天原軍は兵を黄泉族にとられ、黄泉族からの補充も無く、次第に数が減っていく。

やがて、数万と思われていた高天原軍は、伊弉冉の活躍によって僅か十数人へと減っていた。

人垣が消え、伊弉冉は敵の総大将たる造化三神、そして伊弉諾尊と正対した。

「……伊弉諾……」

「久しいな、伊弉冉。数万の高天原軍をここまで減らすとは……黄泉国はいつの間にか随分と力をつけていたようだ。おまけに、私が以前訪れた時よりも格段に統率力が上がっている」

伊弉諾の目は虚ろだ。目は伊弉冉を見ているのだが、心がこの場にいるように感じられない。

「あの時と同じか……」

数千年前、伊弉諾と伊弉冉が袂を分かつ原因となったあの事件。伊弉諾が黄泉に落ちたばかりの伊弉冉の姿を見てしまった時の事を思い出しながら、伊弉冉は呟いた。

「数千年経っても、変わらぬか……」

それ以上、言葉は出てこなかった。伊弉冉は未練を振り払うように、首をふるふると横に振る。そして、銀の剣を伊弉諾に向けて構える。それが合図であったかのように、黄泉の兵達も一斉に武器を構え、戦闘態勢に入った。

それを見て、生き残った高天原軍の天神達も武器を構えた。そこに、造化三神が声をかける。造化三神は人の形を持っていない。光の塊のように見える。

《伊弉諾尊、それに生き残った神々よ……。今こそ、世を正す時。理を乱す伊弉冉尊を抹殺せよ》

「奴らの狙いは私一人か……!」

舌打ちをする伊弉冉を守るように、黄泉族の兵達が前に出る。

「敵の狙いは知れました。伊弉冉様、お逃げ下さい!」

「こちらの方が数で勝っているとはいえ……危険です!」

「だが……」

言い淀む伊弉冉に、兵達は「お早く!」と言おうとした。だが、言えなかった。

激しい閃光が辺りを駆け巡り、轟音が鳴り響く。巨大な落雷により、伊弉冉の眼前にいた兵達は軒並み焼き払われ、八岐大蛇までもが動かなくなった。

「……!」

目を見開き、伊弉冉は前方へと視線を向ける。伊弉諾の横に立つ、精悍な天神を見て苦々しげな顔をした。

「建御雷之男神か……」

憎々しげに呟き睨むと、相手はふいと目を逸らした。剣と雷の神、建御雷之男神。その親は、火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)。炎の神にして、生まれてすぐにその命を散らせてしまった哀れなる神。そして、伊弉冉が腹を痛めて産んだ最後の神でもある。

炎の神を産んだ伊弉冉は火傷を負い、それが原因で命を落とした。それを嘆き悲しんだ夫の伊弉諾は、事もあろうか伊弉冉の死の原因となった火之迦具土を恨み、斬り殺してしまったのだという。その時に流れた血から生まれた神々のうちの一人が、建御雷之男神なのだという。極端な言い方をすれば、火之迦具土の死の象徴たる神だ。

「……そうだったな。伊弉諾、お前は私に手酷い仕打ちをしただけではなく、我が子である迦具土に手をかけたのだったな……。私とお前の、最後の子であるあの子を……!」

「……」

伊弉諾は、答えようとしない。その態度がまた、伊弉冉の逆鱗に触れた。

「お前は……我が子を殺し、妻を辱め、更にはその死後の安寧までも奪おうと言うのか!? それが一日に千五百の子を葦原中国に増やすと言った神のする事か? 共に素晴らしき世界を創ろうと言ったのは嘘だったのか? 私が愛した伊弉諾尊はどこへ行った!?」

叫んでも、伊弉諾尊は動じない。ただ、虚ろな冷たい目で伊弉冉の事を見ている。

「……っ!」

伊弉冉は銀の剣を振りかざし、地を蹴った。あっという間に伊弉諾に肉迫すると、思い切り良く剣を振り下ろす。それを、伊弉諾は金の剣を抜き放ち、受け止めた。

二人の神が斬り結び始めたのを切っ掛けに、黄泉族の兵達も再び動き出す。雲霞の如く押し寄せる黄泉族に向かって、建御雷之男神は怯む事無く雷を落とし続ける。だが、どれだけ仲間が焼かれても、黄泉族は怯まない。自分達は痛みを感じない。そして、死ねば葦原中国に人間として転生するシステムになっている為、敵の兵力となる事もない。だからこそ、彼らは死を恐れる事無く戦う事ができる。

如何に強力な雷を落とせても、多勢に無勢。やがて建御雷之男神は兵達の槍に貫かれ、その身を地に横たえる。湧き上がる兵達の歓声に後押しされ、伊弉冉は次第に伊弉諾を追い込んでいく。

このままいけば、伊弉諾尊を倒せるかもしれない。そうすれば、伊弉諾尊も自分と同じ、黄泉族だ。迦具土を殺したり、自分を辱めた事は許し難いが……それでも、黄泉族となった伊弉諾が己の所業を恥じ、心から謝ってくるようなら、その時は許してやっても良いようにも思う。そして、暗い黄泉国で、親子三人仲睦まじく……。

そんな甘い夢を、伊弉冉は一瞬だけ見た。だが、その夢は実現する事はおろか続く事すら無く打ち砕かれる。

「そこまでです、伊弉冉様」

女の声と、子どもの泣き声が聞こえた。聞き覚えのあるその泣き声に伊弉冉がハッとして振り向けば、そこには子ども――火之迦具土神を抱いた女神が立っていた。女神は手に短剣を持ち、火之迦具土に突き付けている。

「迦具土!」

我が子に刃物を突き付けられた伊弉冉は、一瞬で錯乱状態に陥った。顔は蒼ざめ、心臓は激しく波打ち冷たい血が体内を駆け巡る。

「……返せ……」

伊弉冉の口から、女のものとは思われぬ低く暗い、呻くような声が漏れた。その声を耳にした者達は、心の内からぞくりとする。

「返せ……迦具土を……我が子を返せ!!」

「駄目です、伊弉冉様! 無暗と動いては、迦具土様が……!」

周りの声も聞こえぬ。伊弉冉は銀の剣を握ったまま、女神――天宇受売命へ向かって突進する。

その形相に、今度は天宇受売が恐慌状態に陥った。伊弉冉に迫られた彼女は、慌てて火之迦具土を宙へと放り投げる。伊弉冉の視線が、宙を舞う火之迦具土へと注がれた。

伊弉冉の視線が逸れた瞬間、冷静さを取り戻した天宇受売は手にした短剣を伊弉冉の腹部へ深々と突き刺した。

「がっ……!?」

目を見開いた伊弉冉は、反射的に銀の剣を振り抜く。胴を薙がれ、天宇受売はその場に崩れ落ちた。

「伊弉冉様っ!」

「迦具土……は……」

兵達の声はもう聞こえない。腹から冷たい鮮血を流しながらも、伊弉冉は尚、迦具土の姿を探す。その伊弉冉の視界に、足が入ってきた。顔を上げれば、そこにはぐったりとした迦具土を左腕に抱き、右手に金の剣を握ったままの伊弉諾が伊弉冉を見下ろしている。

「伊弉諾……」

我が子を抱き止めてくれた夫に、伊弉冉はホッと安堵の表情を作った。

その瞬間、伊弉諾は金の剣で火之迦具土の首を刎ねた。鮮血が、伊弉冉の顔に降り注ぐ。今度は、その血から神々が生まれ出る事は無かった。

「迦具、土……伊弉諾……?」

伊弉冉の身体がカタカタと震え、歯がカチカチと鳴る。それを虚ろな目で見ながら、伊弉諾は火之迦具土の遺骸を投げ捨てた。ぐしゃり、という嫌な音がする。

「迦具土! 伊弉諾ぃっ!!」

弾かれたように伊弉冉は立ち上がり、そして銀の剣を伊弉諾に勢い良く突き出した。不意を突かれた伊弉諾はそのまま胸を貫かれ、地に横たわる。

「迦具土……伊弉諾……。迦具土……伊弉諾……」

フラフラと、同じ事を繰り返し呟きながら、伊弉冉は数歩歩み出る。そして、そこで力尽きた。

事切れた伊弉冉は、倒れ伏す伊弉諾に重なるようにして倒れ、そして光と化し霧散していく。

「い……伊弉冉様……」

絶望を顔に貼り付けた黄泉族達の前で、黄泉族化した伊弉諾がむくりと起き上がった。伊弉諾はしばらく呆けていたかと思うと、ハッとして辺りを見渡した。そして、僅かに残っていた伊弉冉の光の残滓に触れると、絶望と後悔に満ちた顔をする。

「伊弉冉……伊弉冉っ!」

叫びながら、伊弉諾は地に両手を叩き付け、更にそれでは飽き足らず額を地に打ち付けた。割れた額から、冷たい血が流れ出る。それでも、伊弉諾は叫ぶ事を止めない。

やがて、伊弉冉の光は残滓すらも消え失せる。

その様子を、宙に浮かぶ光の塊――造化三神は、黙って見下ろしていた。





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